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[ 風雲幕末伝 攻略 ]

歴史概要

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歴史概要

歴史概要
黒船来航 1853年(嘉永6) 6月
嘉永6年6月1日、浦賀沖にアメリカ東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・ペリー率いる4隻のアメリカ軍艦が現れた。旗艦サスケハナ号、ミシシッピ号、サラトガ号、プリマス号である。

この時のペリーの要求は、アメリカ大統領フィルモアの国書を渡すことであった。国書を受け取らないのであれば江戸藩を北上し兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しするとの脅しをかけられた幕府は、6月6日に受領を決定。ペリーは、来年さらに大規模な艦隊を率いて国書に対する返事を聞きに来ると言い残し、帰国した。

この事件により、300年続いた鎖国体制が崩壊していく事となった。
日米和親条約締結 1854年(安政1) 1月
黒船来航の翌年である安政元年1月、約束通りペリーは7隻の軍艦を率いて再び日本を訪れ、同年3月3日、幕府は日米和親条約を結んだ。

条約の内容は、食料や石炭などを補給するために下田と箱館を開港することや、アメリカに対して優遇処置を行うなど、日本に不利なものであった。

だが、圧倒的な武力を背景として突きつけられた要求に幕府は条約に調印せざるを得なかったのである。
日米修好商条約締結 1858年(安政5) 6月
下田の初代米国総領事として日本に来航したタウンゼント・ハリスは、幕府に修好通商条約の締結を迫った。老中首座の堀田正睦は、勅許を得るために京都に上洛したが、孝明天皇は強い攘夷意識を持っていたため、勅許が下ることはなかった。

しかし、アヘン戦争、アロー戦争に清が敗北した事を知り、欧米の脅威を感じた時の大老・井伊直弼は、安政5年6月19日、ついに勅許を得ないままこの条約に調印。条約の内容は、下田、箱館以外に神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の4港を開港すること、自由貿易、治外法権、関税自主権の放棄を認めることなどである。その後同様の条約をイギリス、フランス、ロシア、オランダとも結んだ。この条約は、安政の5カ国条約という。
安政の大獄はじまる 1858年(安政5) 9月
勅許を待たずして日米修好通商条約への調印を断行した井伊直弼の行動は、多くの反感を呼んだ。特に尊王攘夷の思想を掲げていた水戸藩からは強い反発の声があがった。

同じく攘夷思想であった朝廷は、幕府を差し置いて水戸藩に勅書を送ったが、これが幕府の知る所となり、水戸藩に対して嫌疑を強めることになる。そしてついに安政5年9月、井伊直弼は外様大名や公家・幕臣に対しての弾圧を開始。これが安政の大獄である。

この弾圧によって水戸藩の徳川斉昭が永蟹居を命じられたのを始めとし、吉田松陰や橋本左内といった著名な活動家らも投獄され、後に死罪となった。最終的には100余名にも及ぶ志士・幕臣・諸侯・公家らが処罰されるという未曾有の大弾圧であった。
桜田門外の変 1860年(安政7) 3月
安政7年3月3日、賀詞を述べる為に江戸城に向かっていた大老・井伊直弼は、桜田門にさしかかる所で水戸浪士17名、薩摩藩士1名による襲撃を受けた。60人におよぶ隊列は乱れ、駕篭の中にいた井伊直弼は水戸浪士・稲田重蔵によって最初の一太刀を浴びた。

およそ15分に渡る乱闘の後、浪士達は撤退。井伊直弼の首級を手にした薩摩藩士・有村次左衛門は、追撃に遭い自刃した。
吉田東洋暗殺 1862年(文久2) 4月
文久2年4月8日、土佐藩主に日本外史を進講し、帰宅の途についていた土佐藩参政・吉田東洋が暗殺された。実行犯は土佐勤王党の那須信吾、安岡喜助らであり、指示を出したのは武市半平太であったとされる。

吉田東洋は開国・佐幕思想を持ち、文武諸芸の世襲制の廃止や、階級格式の簡略化などの藩政改革を推し進めていたが、理解される猛反発を浴びていた。
寺田屋事件 1862年(文久2) 4月
文久2年4月23日、京都伏見の船宿寺田屋で、薩摩藩士同士が斬り合いに及ぶという事件が発生した。

有馬新七を中心とした尊攘激派の薩摩藩士らは、藩主後見人・島津久光が藩兵1000人余りを率いて上洛したのに時を合わせ、京都所司代などを襲い倒幕の兵を挙げようと計画する。

しかし公武合体の思想を持つ島津久光は、この計画を知り激怒、道島五郎兵衛や大久保利通ら9名を鎮撫士として寺田屋に派遣し、計画を中止させるよう命じた。鎮撫士は寺田屋へ赴き志士達と交渉するもお互い譲らす、ついには斬り合いとなった。

この斬り合いによって鎮撫士側は道島五郎兵衛が討死、志士側も有馬新七をはじめ、6名が死亡。生き残った者の多くも後に切腹することになる。
生麦事件 1862年(文久2) 8月
文久2年8月21日、川崎大師の見物に来ていたイギリス人4名が、江戸からの帰途につく島津久光の大名行列に出くわした。ところが、大名行列に対して騎乗のまま横切ることを無礼であるとは知らなかったために、島津久光の従者は無礼打ちを行い1人を殺害、2人に傷を負わせた。

これを聞いたイギリス人達は報復を唱えたが、イギリス代理公使ニールは外交で決着をつけようと、幕府に賠償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しては犯人の処罰及び賠償金2万5000ポンドを払うよう要求した。幕府は穏便に事を済ませようと賠償金を支払ったが、薩摩藩は犯人は不明であるとして要求を拒否。翌年、薩英戦争が勃発することになる。
英国公使館焼き討ち事件 1862年(文久2) 12月
文久2年12月12日、長州藩士高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多らは、攘夷活動の1つとして、品川の英国公使館の焼き討ちを実行した。

英国公使館は建設中であったため死人は出なかったが、幕府は大きく面目を失うことになった。高杉の狙いも、単純な攘夷活動であるというより、幕府への牽制であるという意味合いが強かったようである。
浪士組結成 1863年(文久3) 2月
文久3年2月23日、清河八郎率いる浪士組が京都に上洛した。浪士組とは、徳川家茂上洛の際の将軍警護を目的とした浪士集団である。清河八郎が江戸のいたるところに募集を呼びかけたため、小石川伝通院に250名もの浪士が集まった。その中には芹沢鴨、近藤勇らの姿もあった。

しかし、京都に到着するなり清河八郎は浪士達の前で演説を行い、浪士組を将軍警護ではなく攘夷集団にすることを明らかにし、江戸に戻る事を宣言。これに反対した芹沢鴨、近藤勇らは浪士組と決別し、京都に残った。

この時京都に残った人数は僅か13名であったが、京都守護職・松平容保の庇護を得ることで壬生浪士組を発足。後の新撰組である。
清河八郎暗殺 1863年(文久3) 4月
文久3年4月13日、知人である金子与三郎の家で酒を飲み交わし、帰途についた清河八郎が麻布一ノ橋で佐々木只三郎、速水又四郎らの手にかかり暗殺された。

北辰一刀流免許皆伝の清河ではあったが、路上であった佐々木らに笠を取って挨拶されたため、同じように笠を取ろうとしたところ、その隙に斬りかかられ斬殺されたと言われている。享年34歳。

清河の暗殺以降、浪士組は勤王色を一掃した新微組として再編成され、江戸市中の警護にあたった。
奇兵隊結成 1863年(文久3) 6月
文久3年6月6日、高杉晋作により身分関係なく編成された軍隊、奇兵隊が結成された。

奇兵隊は、長州藩が関門海峡を通る外国船に向かって砲撃を行い、反対に報復を受けてしまった事から、下関防衛の手段として高杉が提案したものである。

奇兵隊は武士以外に庶民や脱藩浪士などから編成された当時としては画期的な軍隊であり、後の戊辰戦争でも目覚しい活躍を見せた。
薩英戦争 1863年(文久3) 7月
文久3年7月2日、生麦事件の賠償金を要求するために鹿児島藩に停泊していたイギリス船隊は、業を煮やして薩摩藩の蒸気軍艦3隻を捕獲した。これにより、薩摩藩の陸上砲台とイギリス艦隊の激しい砲撃戦が始まった。

激戦の末、薩摩側は鹿児島市街が焼け落ち砲台は壊滅。死者5人、負傷者10人余人の被害を受けた。それに対し、イギリス側も旗艦ユーリアラスに砲撃が直撃し、死者13人、負傷者60余人の被害を蒙り、一時撤退を余儀なくされた。

その後、和議交渉が行われ、薩摩藩はイギリスに対して賠償金を支払い、生麦事件の犯人を捕縛することを約束。それと同時に、薩摩藩は外国と事を構える愚かさを学び、イギリスも薩摩の強さを認め、互いに協力関係を気づく事になった。

この戦争の結果によって、薩摩の軍隊は大きく近代化していくのである。
教法寺事件 1863年(文久3) 8月
文久3年8月16日、奇兵隊が撰鋒隊の宿舎である教法寺を襲撃した。

撰鋒隊とは、奇兵隊結成後、新たに加わった正規軍であり、身分の垣根なく集められた奇兵隊とはそりが合わず、何かと対立していた。そこへ、長州藩世子が奇兵隊と撰鋒隊を視察に訪れたが、前田砲台の奇兵隊を視察したのみで日が暮れてしまい、撰鋒隊の視察が延期となる事件が起きる。

これを、高杉晋作の補佐である宮城彦助の陰謀であると決め付けた撰鋒隊は宮城の殺害を計画。それを止める為に高杉は教法寺に駆け込むが、奇兵隊もこれに合流した為に乱闘が発生。この戦いによって、撰鋒隊隊士・蔵田幾之進が奇兵隊によって斬殺された。

事件の責任を問われ、宮城彦助は切腹、高杉は奇兵隊総督を解任された。奇兵隊総督に就任してから、僅か3ヶ月のことであった。
八月十八日の政変 1863年(文久3) 8月
黒船来航以来、孝明天皇は攘夷に執着していたため、朝廷内は長州藩を中心とする尊王攘夷派が支配していた。

さらに長州は、攘夷祈願の大和行幸を計画し詔を得ることに成功、朝廷内での発言力を更に高めていく。

文久3年8月18日、長州の独走に危機を感じた薩摩藩と会津藩は中川宮と手を組み、三条実美ら尊攘派公卿7人の官位を取り上げ、長州藩を朝廷から追放した。

この時、京都御所の警護に出勤していた近藤勇ら壬生浪士組は、その功により「新撰組」の隊名を授かった。
芹沢鴨暗殺 1863年(文久3) 9月
浪士組との決別以降、京都守護職御領となっていた新撰組であったが、京の町で横暴な振る舞いを行う芹沢派の所業が、隊内でも大きな問題になっていた。京都守護職たる会津藩にしてもこれを放置する訳にいかず、芹沢鴨粛清の密命を近藤勇に下す。

近藤派は手始めに、祇園で遊興していた芹沢鴨の腹心である新見錦を詰問し、詰め腹を切らせた。

そして文久3年9月16日深夜、八木邸にて泥酔し、妾のお梅と寝ていた芹沢鴨は、侵入してきた土方歳三、沖田総司らによって、平山五郎と共に暗殺された。享年35歳であった。

この事件により新撰組の主導権を握った近藤勇は、暗殺の下手人を不逞浪士と公表し、2人の葬儀を前川邸で厳粛に行ったという。
池田屋事変 1864年(元治1) 6月
元治元年6月5日、新撰組監察方が、湯浅喜右衛門の経営する枡屋に不逞浪士が出入りしているとの情報を掴み、ただちに武田観柳斎率いる五番隊が湯浅を捕縛。追求したところ、本名を古高俊太郎と名乗り、浪士達を手引きしていたことがわかった。さらに厳しい拷問の末、過激派浪士達による京都大火の計画が明らかになる。

同日午後7時頃、新撰組は隊を2つに分け、それぞれ池田屋と四国屋への探索を開始。近藤勇率いる隊が過激派浪士の終結する池田屋に到着したのは、午後10時ごろであった。時間が無いと見た近藤勇は、沖田総司、永倉新八、藤堂平助と共に突入を決行し、激闘が開始された。

遅れる形で別働隊を率いた土方歳三らも駆けつけ、戦闘の結果として20余人の浪士を殺害・捕縛。死者の中には宮部鼎蔵や吉田稔麿といった大物も含まれていた。

この事件の結果、京都の大火を未然に防いだとして、新撰組の名は天下に響く事になった。これによって明治維新が1年遅れたとも言われるほどの、大きな事件であった。
佐久間象山暗殺 1864年(元治1) 7月
元治元年7月11日、幕府の命により上洛していた佐久間象山が、京都三条木屋町で暗殺された。江戸で塾を開いていた佐久間は、吉田松陰・勝海舟など多くの逸材を輩出し、その名は天下に知れ渡っていた。

しかし同時に、西洋の知識に通じ開国論を唱え、さらに公武合体論者でもあった為、尊攘派の反感を大きく買っていた。

その日に、外出先から騎乗で帰路についた象山は、三条大橋のそばで「人斬り彦斎」の異名を持つ肥後藩士・河上彦斎らの襲撃を受け、斬殺された。享年53歳であった。
禁門の変 1864年(元治1) 7月
八月十八日の政変により朝廷から追放された長州藩は勢力挽回の機会を窺っていたが、池田屋事変によって多くの人物を失った。

この事件に激怒した長州藩過激派は、藩主父子と公家7名の赦面嘆願を名目に、3千の兵を率いて上洛。対して幕府側は、薩摩藩・会津藩などの協力を得て、8万の兵で迎え撃ったのである。

元治元年7月19日、幕府の退去勧告を長州が無視したことで、戦闘が開始される。少数ながらも奮戦した長州藩であったが、薩摩藩の活躍などによって諸方面で敗北。長州の中心人物であった来島又兵衛や久坂玄瑞らも激戦の中で自害する。

この戦闘によって京の町は3万戸が消失したとも言われ御所に向かって発砲した長州藩は朝敵とみなされるこっとなった。

この禁門の変は、最激戦地となった禁門が、大火により初めて開門したことから、焼けて口を開く蛤に例えられ、「蛤御門の変」とも呼ばれる。
下関戦争 1864年(元治1) 8月
かつて関門海峡を渡る外国船を砲撃し、逆に報復を受けた長州藩であったが、そののち再び下関に砲台を築いていた。イギリス公使オールコックは、幕府に下関の通航確保を要求するが、幕府は長州の勢力を削ぐ良い機会だと考え静観の立場をとる。

元治元年8月5日、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国連合艦隊が、下関で攻撃を開始。その規模は軍艦17隻、大砲288門、兵5000人であったといわれている。

3日間の戦闘の末、連合艦隊によって関門海峡は制圧された。これに狼狽した長州藩政府は、高杉晋作を和平交渉の使者として派遣。高杉の機転により、ひとまず事態は収まったが、この敗戦を契機に長州藩内で保守派が台頭することになった。
第一次長州征伐 1864年(元治1) 11月
孝明天皇は禁門の変で朝敵とみなされた長州藩の追討を命じた。幕府は薩摩藩や会津藩を含めた征長軍を編成し、総督に徳川慶勝、参謀に西郷隆盛を任命。 征長軍は、長州に向けて進軍した。

しかし、禁門の変・下関戦争と相次ぐ敗戦よって力を失っていた長州藩に迎え撃つ力は無く、全面的に降伏する姿勢をとった。

禁門の変で指揮をとった福原越後、国司信濃、益田右衛門介の三家老の切腹、政変の際に長州へ落ち延びた五卿の移転などの条件をもって、幕府に陳謝したのである。

この動きを受ける形で征長軍は撤収。大きな戦いが行われる事もなく、長州の全面敗北と言える内容で終結した。
功山寺挙兵 1864年(元治1) 12月
元治元年12月15日、数々の敗戦により、保守派の幕府恭順へ流れていた藩論を、再び改革派の元に取り戻さんと高杉晋作は決意。賛同した遊撃隊及び伊東俊輔率いる力士隊ら、僅か80余名が功山寺に集結、挙兵した。

高杉率いる決起軍は、保守派を「俗論党」と断じ、まず下関の新地会所を占領。さらには三田尻港へ赴き軍艦3隻を奪取する。この目覚しい活躍によって、山県狂介率いる奇兵隊ら諸隊も重い腰を上げ、長州藩政府にとっても無視できない勢力となった。

決起軍は大木津・川上の戦い、呑水峠の戦い、赤村の戦いで俗論党にことごとく勝利。決起は成功し、高杉は藩論を倒幕に統一することに成功した。
山南敬助切腹 1865年(慶応1) 2月
慶応元年2月、新撰組総長、山南敬助が突如隊を脱走し大津で追手の沖田総司に連れ戻されるという事件が起こった。

新撰組創立以来の同士である山南に対する処罰を非難する声もあがったが、局中法度により切腹という決定がなされた。切腹の前日、山南の愛人である島原の遊女明里と、窓越しに別れを告げたとも言われている。

慶応元年2月23日、沖田の介錯により、屯所内で山南の切腹が行われた。享年33年であった。
武市半平太処刑 1865年(慶応1) 5月
慶応元年5月11日、土佐勤王党の党首であった武市半平太が切腹した。

武市は土佐藩の勤王統一を志し、岡田以蔵や武田新兵衛らを使って対立する人物を次々と暗殺した。

しかし、公武合体を唱える山内容堂が土佐藩の実験を握ったことで、状況は一転。さらに八月十八日の政変で勤王派が衰退すると、武市にも帰国が命じられ、帰国するや投獄された。武市は他の勤王党同志の事を考え、1年半にも渡る過酷な獄中闘争の中、暗殺を指揮していた事を否定し続けたという。

しかし、後に捕縛された岡田以蔵の自供によって事態が明るみに出て、獄中での切腹を命じられた。享年36歳。
同日、岡田以蔵も処刑された。その首は雁切川原にさらされた。
薩長同盟 1866年(慶応2) 1月
慶応2年1月22日、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩が手を結んだ。

薩摩藩と長州藩には、八月十八日の政変・禁門の変・第一次長州征伐で敵対したことにより、大きな溝があった。特に長州藩は、自らを窮地に追いやった薩摩藩を憎むこと甚だしかった。

しかし、土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎の働きかけにより西郷隆盛と桂小五郎の会談が実現。その場で薩長同盟結ばれた。

協定内容は、薩摩藩が長州藩を支援することや、勝敗いずれの場合にもお互いが協力し合うことなど、全6ヶ条から成るものであった。この同盟によって、武力倒幕が大きく現実味を帯びることになったのである。
第二次長州征伐 1866年(慶応2) 6月
幕府は、長州が再び倒幕運動を強めたことを理由に、再度長州征伐を決断する。これには朝廷や薩摩藩を始めとする諸藩が反対したが、長州の動きを警戒する幕府の意志は動かなかった。

しかし、幕府は天皇からの勅許を得るのに手間取り、その間に長州は着々と迎撃準備を進めていたのである。

慶応2年6月7日、ついに幕府軍と長州軍が激突。幕府軍は、芸州、石州、大島、小倉の4方向から攻めたが長州藩が薩長同盟によって得た近代兵器の前に、次々と敗北した。

さらに将軍徳川家茂が大阪城にて病没した事で、幕府軍は撤退、9月に休戦協定を結んだ。長州の完全勝利とも言える内容であった。
孝明天皇崩御 1866年(慶応2) 12月
慶応2年12月25日、孝明天皇が崩御した。

12月11日の神楽の席にて突如天然痘を発症したのである。15代将軍徳川慶喜も駆けつけ、一時回復の兆しを見せたものの容態が急変し、そのまま崩御した。

孝明天皇の死に関しては毒殺説が浮上しており、あくまで公武合体の姿勢を取る孝明天皇を疎んじた、倒幕派公卿の岩倉具視が黒幕だとも言われている。

そして孝明天皇の崩御により、朝廷内の倒幕派公卿は勢力を盛り返したのである。
御陵衛士分隊 1867年(慶応3) 3月
慶応3年3月20日、参謀・伊東甲子太郎を中心とする10余人が、新撰組から分離し、御陵衛士を結成した。

御陵衛士とは、亡き孝明天皇の御陵守護のために結成した組織であり、薩摩藩と長州藩の動向を探るという建前上の目的があったが、実際は新撰組と対立する勤王集団であった。高台寺月真院を屯所としていたために、高台寺党とも呼ばれる。

御陵衛士となった者は、伊東甲子太郎の他に、篠原泰之進、藤堂平助、斎藤一なども含まれていた。しかし斎藤一は新撰組の間者として御陵衛士に入ったと言われている。
薩土盟約 1867年(慶応3) 6月
坂本龍馬は、土佐藩船夕顔丸の船内で大政奉還や無血革命など、自らの考える国家思想を記した「船中八策」を考案した。坂本は、船中八策をもとにした大政奉還の主旨を薩摩藩に伝えるため、慶応3年6月22日、京都薩摩藩邸で西郷隆盛らと会合した。西郷は大政奉還に同意し、土佐藩と盟約を結ぶ。この時結ばれた盟約が薩土盟約である。

しかし、その後無血革命が難しいと考えた西郷は、長州藩、芸州藩と武力倒幕の盟約を結び、倒幕に向けて着々と準備を行うのだった。
大政奉還 1867年(慶応3) 10月
慶応3年10月14日、15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上した。これを大政奉還という。

大政奉還の発案者は土佐藩の坂本龍馬である。坂本が考案した船中八策を、土佐藩参政・後藤象二郎が藩主である山内容堂に掛け合い、建白書として徳川慶喜の手に渡った。

公卿岩倉具視らと組み、武力による倒幕の準備を着々と進めていた薩摩藩と長州藩は、大政奉還が行われたことにより、武力倒幕の計画を中止せざるをえなかった。皮肉にも、同日に倒幕の密勅が下っていたのである。

大政奉還によって政権を朝廷に渡したことで、300年続いた徳川幕府の支配体制は幕を閉じた。
近江屋事件 1867年(慶応3) 11月
慶応3年11月15日の夜、京都川原町にある醤油商近江屋にて、土佐藩士坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かに暗殺された。

その日、龍馬は母屋の2階で中岡と火鉢を囲みながら論議していたという。午後9時頃襲撃があり、龍馬は頭部を斬られ絶命、中岡も重傷を負い2日後に死亡した。

刺客については現在も不明だが、新撰組と同じく京都治安維持の職に就いていた、京都見廻組の佐々木只三郎らによる暗殺だという説が有力となっている。
油小路の変 1867年(慶応3) 11月
慶応3年11月18日、近藤勇の妾宅に招待された伊東甲子太郎は、高台寺月真院への帰途で、待ち伏せていた新撰組隊士に襲われた。伊東は傷を負いつつも油小路通りへ逃れたが、そこで絶命した。

翌19日、御陵衛士の隊士達が遺体を引き取りに油小路を訪れたところ、新撰組の待ち伏せに遭遇する。激闘が起こり、御陵衛士の毛内監物、服部武雄、藤堂平助の3人が討死を遂げた。他の者は逃亡し、薩摩藩などの庇護を受けることになった。
天満屋事件 1867年(慶応3) 12月
近江屋事件において、坂本龍馬と中岡慎太郎を失った海援隊士・陸奥陽之助らは、暗殺は紀州藩士・三浦休太郎の手引きによるものと考えていた。

慶応3年12月7日、陸奥を初めとする海援隊士が、京都花屋町の天満屋で酒宴を開いていた三浦を襲撃。しかし新撰組・斎藤一らが三浦の警護をしていたため、乱闘が発生する。この乱闘により、海援隊の中井庄五郎が死亡。

結局、斎藤らの奮闘によって、三浦暗殺は未遂に終わった。
王政復古の大号令1867年(慶応3) 12月
大政奉還によって政権は朝廷に返上されたが、幕府の勢力が無くなったわけではなかった。慶応3年12月9日、幕府の完全崩壊を望んでいた岩倉具視や薩摩藩・長州藩は天皇の名の下に王政復古の大号令を宣言する。これは、旧政府体制である摂政・関白・幕府を廃し、新しく総裁・議定・参与という三職を設置するというものであった。

同日の夜、小御所会議を行った岩倉らは、さらに徳川家に対して領地の返上を要求する。これに激怒した幕軍は、薩長に向けて攻撃を開始。これが、戊辰戦争の始まりであった。あくまでも武力倒幕を考える岩倉らの策略に乗ってしまったのである。
鳥羽伏見の戦い 1868年(慶応4) 1月
慶応4年1月3日、京都の南方に位置する鳥羽・伏見にて、天皇中心の政治を掲げる新政府軍と、それに反対する旧幕府軍の戦争が開始された。

兵力のうえでは圧倒していた旧幕府軍であったが、最新型の洋式装備を整えた新政府軍に苦戦を強いられた。そして翌4日、新政府軍が官軍の証である「錦の御旗」を掲げたため、旧幕府軍の戦意は一気に喪失したのである。

戦いは新政府軍の勝利に終わり、旧幕府軍は大阪城に後退した。しかし、逆賊の汚名を着せられる事を恐れた徳川慶喜は、密かに大阪城を脱出し江戸に帰還。残された旧幕府軍も士気を失い、バラバラに離散していった。
近藤勇投降 1868年(慶応4) 4月
鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、甲府城を奪うために北上していた。近藤勇は新撰組を再編成して甲陽鎮撫隊と名を改め、新政府軍より先に甲府城へ入城しようと進軍。しかし進軍が遅れて先を越されてしまい、さらには勝沼の戦いに敗北したことで、作戦は失敗に終わった。

江戸に帰ってきた甲陽鎮撫隊であったが、意見の対立から幹部であった永倉新八・原田左之助が離脱。

慶応4年4月3日、近藤と土方は流山で軍を再編成しようとしていたが、新政府軍に包囲されたことで近藤は投降した。この時、近藤は大久保大和と名乗っていたが、新政府軍にいた元御陵衛士・加納道之助に看破されてしまう。

その後、近藤は板橋に護送され、斬首となった。武士として切腹を望んだ近藤であったが許されず、罪人としての最期を迎えたのである。享年35歳であった。その首は同所で晒された後、京都三条河原で晒された。
江戸城無血開城 1868年(慶応4) 4月
慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、朝敵となった徳川慶喜は恭順を示すために上野寛永寺に謹慎したが、これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もっていた。新政府軍はこれに対し、江戸城総攻撃を3月15日と定める。

戦乱を避けんと考えた慶喜は、交渉を旧幕府陸軍総裁である勝海舟に委任。同年4月11日、勝は大総督府参謀の西郷隆盛と会談し、江戸無血開城を導いたのである。
母成峠の戦い 1868年(慶応4) 8月
慶応4年8月21日、会津若松城下を目指す新政府軍と守護についていた旧幕府軍が、母成峠で衝突した。母成峠を守護していたのは、土方歳三率いる新撰組と、大鳥圭介率いる伝習隊ら900人であった。

しかし、薩摩・長州・土佐の一斉攻撃を受けた為に、持ちこたえられず、その日のうちに敗走してしまった。土方は、旧幕府軍と合流する為に蝦夷へ向かい、会津に残った斎藤一と訣別した。
箱館総攻撃 1869年(明治2) 5月
敗戦し続けた旧幕府軍の残党は、蝦夷に集結し、独立国家を築こうとする。これに対して新政府軍は、旧幕府軍を殲滅するため蝦夷に上陸した。抵抗する旧幕府軍との激しい戦いの末、新政府軍は松前城を占領する。

その後、進撃する新政府軍を前に、土方歳三が指揮する旧幕府軍が二股口にて奮戦した。しかし、他の旧幕府軍の拠点が次々と突破され、撤退命令が下された。

明治2年5月11日、新政府軍は箱館に向けて総攻撃を開始。一本木関門で防衛していた土方は、腹部に弾を受けて戦死した。5月18日、ついに箱館五稜郭が開城し、旧幕府軍は降伏した。

こうして1年間にわたる戊辰戦争は終結し、幕末の動乱に終止符が打たれたのである。

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