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偉人録 プロローグ
坂本龍馬/岡田以蔵/桂小五郎/高杉晋作/西郷隆盛/中村半次郎/河上彦斎坂本龍馬 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 小千葉道場塾頭試験 | 幕末の風雲児・坂本龍馬は天保6年(1835年)、土佐藩に生まれた。 家は下級武士ながら、商売によって豊かな財産を蓄えており、龍馬は何不自由ない幼少時代を送る。 過保護に育てられたため、学問もできず不器用だった龍馬が、唯一得意としたものが剣術だった。 嘉永6年(1853年)、剣術修行のため江戸に出た龍馬は北辰一刀流の千葉道場に入門する。 瞬く間に頭角を現し、北辰一刀流宗主・千葉周作から塾頭に推薦される龍馬。しかし、周作の姪・佐那子と甥・重太郎に勝利するという条件を提示される。2人ともかなりの使い手として知られていた。 龍馬、初めての大舞台である。 |
事件 弐 | 邂逅 | 文久元年(1861年)、龍馬は武市半平太が結成した土佐勤王党に参加する。武市は急進的な尊攘論者だった。そのため、藩の重鎮である公武合体派の吉田東洋と対立。刺客を放って吉田を暗殺してしまう。 それを知った龍馬は武市のやり方に嫌気がさし、土佐勤王党を離れる。また、土佐藩からも脱藩した。 これからどのように生きるべきか。江戸で思案に暮れていた龍馬の耳に、「ある男」の噂が入ってきた。 勝海舟。開国派の幕臣である。武市から距離を置いていたとはいえ、龍馬はまだ攘夷を信じていた。 勝のような男がいては、いずれ日本は諸外国に蹂躙されてしまう。そう考えた龍馬は、力ずくでも説得するつもりで、千葉重太郎と共に勝の屋敷に乗り込む。 |
事件 参 | 薩長同盟 | 豊かな人間性と思想に惚れ込み、龍馬は勝の門下生となる。 勝が主張する「世界への展望」を実現するべく操船を学び、神戸海軍操練所を設立。慶応元年(1865年)には、日本初の海運会社・亀山社中を立ち上げた。 こうして龍馬は日本が世界へ船出する準備を着々と整える。しかしそれを成功させるためには、幕府の古い体質を打ち壊す起爆剤として、長州の力が不可欠であった。だが長州は禁門の変、第一次長州征伐などを経て、力を失っている。 藩内の恭順派の立ち回りによってなんとか首の皮一枚で繋がっているものの、長州内部は恭順と徹底抗戦の二派に分裂していた。幕府は早くも次の長州征伐を計画し、長州の命運は風前の灯火となる。 長州を存続させるため、龍馬は薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎を引き合わせ、薩長同盟締結を急ぐ。 慶応2年(1866年)、京都にある薩摩藩士・小松帯刀邸にて、西郷と桂の会見が行われた。積年のわだかまりから、両者一歩も譲らない。 あの2人ならうまくいくはず。 状況を知らない龍馬はのんびりと小松邸に向かっていた。 |
事件 四 | 寺田屋脱出 | 薩長同盟によって、維新回天へのお膳立てはすべて整った。あとは幕府の命じる第二次長州征伐を薩摩が拒否し、長州が軍備を整えるのを待つだけである。 龍馬は自分の計画が進んでいることに満足感を覚える。しかし、まだ完全に肩の荷が下りたわけではない。維新を成し遂げた後、新しい日本をどのように作り上げるのか。考えるべきことは多い。 一方、薩長両藩の接近を警戒した幕府は、その背後で暗躍する龍馬を捕らえようと躍起になっていた。 薩長同盟締結の翌日、伏見奉行・林肥後守配下の捕吏が龍馬の滞在する寺田屋に現れる。 |
最終事件 | 近江屋事件 | 第二次長州征伐は長州の勝利に終わる。 その陰には龍馬の働きによって締結された薩長同盟の存在があった。 時代は倒幕に向かって動き始める。 維新後の政権獲得に執着する薩摩や長州とは異なり、龍馬はより広い視野で日本の将来を考えていた。 まず、亀山社中を海援隊と改名。土佐藩の協力を得て、海外交易の足がかりを築く。 その一方で、新生日本の青写真とも言える「船中八策」を起草。土佐藩参政。後藤象二郎に、徳川の政権返上と朝廷を中心とした立憲君主制の確立などを進言する。 尊攘派でありながら徳川家存続の道を探っていた土佐藩にとって、龍馬の意見は両方の条件を満たしていた。後藤はこれを「大政奉還の建白書」として幕府に提出する。 十五代将軍・慶喜は建白を受け入れ、慶応3年(1867年)、大政奉還がなされる。龍馬は慶喜の決断に喝采を送った。 しかし、この頃から何者かが龍馬の命を狙い始める。その上、寺田屋の一件で役人を殺され、幕府も行方を探していた。 盟友・中岡慎太郎と洛内の近江屋にいた龍馬は、自分たちに暗殺者が迫りつつあることにまだ気付いていなかった。 |
岡田以蔵 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 忠義の剣 | 天保9年(1838年)、岡田以蔵は土佐藩に下級藩士の子として生を受けた。 足軽という身分から、道場で剣を学ぶことができなかった彼は我流で腕を磨いていく。 その形に拘らない野生の剣に目をつけたのが、のちに土佐勤王党を作ることになる武市半平太(瑞山)であった。 急進的な尊王攘夷論者である武市は、自らの思想に反する者たちを排除するため、以蔵とその剣術を利用しようと考える。 己の力を活かす機会を与えられた以蔵は、その意味などはどうでもよく、盲目的に任務を遂行していった。 文久2年(1862年)、武市は同じ尊攘論者である本間精一郎に対し、裏切りの疑念を抱く。 以蔵に本間暗殺の命が下った。 |
事件 弐 | 乱戦 | 激動の時代の中にあって、以蔵は勤王派の論客たちから暗殺者として重宝された。 やがて、人々から「人斬り」と呼ばれ、恐れられる以蔵。 彼は師と仰ぐ武市の下、自らの力を誇示するかのように、幕府方の人間を次々と闇に葬り去る。しかし、武市は不満だった。 新しい時代の先駆けとなる思想家を自認する武市の目には、思想を持たぬ以蔵の剣が、ただの殺戮としか映らなかったのである。 時は文久2年(1862年)。安政の大獄に協力した渡辺金三郎ら、京都奉行所の要人暗殺計画が持ち上がる。 この任務が政治的に大きな意味を持つと考えた武市は、暗殺団から以蔵の名前を外すのであった。 しかし、その計画をかぎつけた以蔵は、自分の存在価値を示すため、暗殺の現場に乱入する。 |
最終事件 | 勝海舟護衛 | 京都奉行所の要人暗殺事件で不用意に名乗りを上げてしまったことが、武市に以蔵の単純さをさらに印象付けてしまう。 しかし、以蔵の剣を必要としているのは武市だけではなかった。 同郷の士・坂本龍馬は、思想に左右されず純粋に剣の道にのみ生きる以蔵に、何かを感じ取る。 以蔵もまた、闊達な龍馬の生き方に影響され、武市にはない魅力に引き付けられた。 やがて、以蔵は龍馬を慕って土佐藩を脱藩する。 文久3年(1863年)、龍馬は以蔵に幕臣・勝海舟の護衛を依頼した。龍馬と勝は国内だけでなく、世界に目を向ける志士として固いきずなで結ばれた盟友である。 思想に囚われない以蔵にとって、今まで敵対していた幕府側の人物を護衛することに何の矛盾も感じなかった。 同年、3月8日。京都寺町通りにおいて、勤王派浪士たちが勝を襲った。以蔵は、勝の命を守るべく白刃を抜き放つ。 |
桂小五郎 | ||
事件 |
任務 | プロローグ |
事件 壱 | 激剣大集会 | 天保4年(1833年)、長州に1人の俊傑が誕生した。名は桂小五郎。 藩医の子として生まれた小五郎は、若くして山鹿流兵学師範・吉田松陰に入門する。 のちに多くの尊攘論者に影響を与えることになる松陰は、小五郎の才能を高く評価していた。そのため、小五郎は周囲の期待を一身に浴びることになる。 慎重で几帳面な性格は学問だけでは満足せず、小五郎を剣の道へと進ませる。 国元を離れ、江戸の神道無念流・斎藤道場に入門した小五郎は熱心な練習の末、塾頭にまで上り詰める。 しかし、小五郎の心は満たされない。 幕末という不安な時代を反映し、江戸では多くの剣術道場が開かれ、互いに腕と人気を競い合っていた。 完璧を求める小五郎にとって、他流の剣士たちと戦って自分の腕を試したいという欲求に駆られるのは当然のことであった。 安政4年(1857年)、その機会が訪れる。土佐藩主・山内容堂が各流派の剣士たちを集め、御前試合を行うことにしたのだ。参加者の中には千葉道場の塾頭を務める坂本龍馬の名もあった。 すでに剣術家として名前が知られていた小五郎はその知らせに飛びつき、参加を決める。 |
事件 弐 | 池田屋事変 | 日に日に朝廷内での評価を高めていく長州藩。これに焦りを感じた薩摩藩は、朝廷や会津藩を動かし、長州藩の洛外追放を画策する。 八月十八日の政変と呼ばれるこの事件で、尊攘派の公卿や長州藩は京からの退却を余儀なくされる。 その頃、水戸藩の西丸帯刀らと丙辰丸盟約を結ぶなど、政治活動にも積極的に参加するようになっていた小五郎だが、急進的な活動を展開する一派とは距離を置いていた。 小五郎は、八月十八日の政変後も京に留まり、藩の信頼回復に駆け回る。慎重な性格が強引な活動を是としなかったのである。 そんな小五郎の努力も空しく、長州藩は強硬路線を突き進む。 元治元年(1864年)、久坂玄瑞ら過激派の先鋒は、都に火を放ち、天皇を長州に奪い去ろうと考える。 このままでは長州藩は逆賊の誹りを免れない。そう考えた小五郎は、久坂らの計画を止めるため、一派の集会が開かれる池田屋へと急いだ。 |
最終事件 | 吉田屋脱出 | 池田屋事変で辛くも難を苦れた小五郎は、尊攘派にとって、もはや京は安全な場所ではないと判断。都を離れる決意をする。 しかし、どこへ行っても追撃の手から逃れることはできなかった。 小五郎には松陰から学んだことを実践しなければならない使命がある。そのためには、ここで命を落とすわけにはいかない。 各地を逃げ回るより、むしろ京の方が安全と考える小五郎。 変装して都に舞い戻った小五郎は、馴染みの芸妓・幾松のいる三本木・吉田屋に身を潜める。 しかし、必死になって小五郎を探す新撰組の目をごまかすことはできなかった。 小五郎の潜伏を知った新撰組は、捕縛するため吉田屋に踏み込む。 |
高杉晋作 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 英国公使館焼き討ち | 長州藩士・高杉晋作。 「動けば雷電の如く・発すれば風雨の如し」 と評された男の人生は天保10年(1839年)に幕を開ける。 上級武士の子として生まれた晋作は、吉田松陰が主宰する松下村塾に入塾。久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿と並び、四天王と評されるほど期待される存在となる。 また、柳生新陰流免許皆伝という腕を持つほど剣術にも長けていた。 上士出身という毛並みの良さは松下村塾において異色な存在だったが、晋作は持ち前の行動力を発揮し、尊攘活動に関わっていく。 藩は晋作の才能に期待し、文久2年(1862年)、幕府の清国使節団に参加させる。そこで欧米に屈した国の厳しい現実を目の当たりにする。 帰国した晋作は自国の未来を憂いて長州藩士のみで構成された「御楯隊」を結成。弱気な幕府に代わって異国人を排除しようと考えた。 文久2年(1862年)、御楯隊は品川の御殿山に建設中の英国公使館を襲撃する。 |
事件 弐 | 教法寺事件 | 英国公使館焼き討ちを成功させた物の、事件後、御楯隊は解散。晋作は何を思ったか突如、出家して僧となる。武士を捨てるというこの奇行に周囲は驚かされた。 しかし、時代の大きなうねりは晋作を再び歴史の表舞台に呼び戻す。 朝廷の圧力によって幕府が定めた攘夷決行の期日がやってくると、長州藩は近海で次々と外国船を攻撃しはじめたのだ。 もちろん、諸外国がこれを黙って見過ごすはずがない。アメリカやフランスは軍艦を出動させ、長州藩に報復を開始した。 圧倒的な戦力差を前に、長州藩は苦戦を強いられる。そこで戦闘指揮官として晋作が起用された。 もはや正規の武士だけでは戦力差を埋めることができないと考えた晋作は、身分にとらわれず優秀な人材を集めて奇兵隊を結成。自ら総督としてその指揮を執った。 正規軍を構成する藩士たちにとって、これは屈辱以外のなにものでもない。 自分たちの身分さえも脅かしかねない奇兵隊に対し、穏やかならざる感情を持つのも当然であった。 一方、奇兵隊の隊士たちは、口ばかりで何の役にも立たない正規軍に敬意を払うつもりはまったくない。 やがて両者のわだかまりが事件の形を取って噴出する。正規軍である撰鋒隊が奇兵隊を侮辱したのだ。晋作はそれを聞くと、怒りに身を震わせ、直ちに撰鋒隊の宿舎、教法寺に乗り込んでいくのであった。 |
事件 参 | 功山寺挙兵 | 教法寺での騒動は、晋作に武士とその他の階級が手を取り合って新しい日本を作っていくことの難しさを、改めて痛感させた。 事件後、晋作は責任を取る形で奇兵隊の総督を辞任した。 その後、藩内の急進派を抑えるため、脱藩して京へ向かう晋作。 しかしこの勝手な行いによって、晋作は藩から処罰を受け、野山獄に繋がれてしまった。 晋作が謹慎を受けている間も、情勢は動き続けていた。 文久3年(1863年)には八月十八日の政変、翌年7年には禁門の変が起こり、長州藩の勢力は著しく削がれることになる。 また同年8月には、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4ヵ国の連合艦隊に敗北。藩は和平交渉を行わせるため、晋作を赦免する。 直垂に烏帽子という古の大和武士を思わせる正装で交渉に臨んだ晋作に、諸外国の使節は困惑。 晋作の突拍子もない行動が功を奏し、長州藩は諸外国との危機を回避する。しかし、第一次長州征伐で家老3名を切腹させることで恭順を示すなど、藩政府の幕府への対応は相変わらず弱腰だった。 晋作はこうした藩の姿勢に業を煮やし、ついに功山寺で同士を集め、武力決起を宣言する。 |
事件 四 | 赤村の戦い | 幕府に対し、恭順姿勢を貫く一派を「俗論党」と厳しく批判し、自分たちを「正義派」と名乗って挙兵した晋作。 三田尻にて軍艦の奪取に成功すると、最初は腰の重かった山県狂介率いる奇兵隊もついに決起する。山県も晋作同様、松下村塾で吉田松陰に師事した志士のひとりだった。 晋作とは別行動を取って藩兵と衝突する奇兵隊。その機動力で優勢に立つものの、数で劣るため、すぐに形勢は逆転してしまう。 その危機へ、晋作が援軍として駆けつけた。奇兵隊と合流した晋作は、藩政府軍の陣所となっている赤村の正岸寺への襲撃を決意。 慶応元年(1865年)1月16日、晋作と奇兵隊は闇夜に乗じて正岸寺へ近づく。 |
最終事件 | 第二次長州征伐 | 藩内の俗論党を排除する勢いで、晋作は勝利を収めた。 このことにより、長州藩は倒幕へと大きく傾く。 危機感を抱いた幕府は直ちに第二次長州征伐を計画。各藩に協力を求める。 しかし、第一次長州征伐には進んで参加した薩摩藩がこれを拒否。実は薩摩藩と長州藩の間で密盟が交わされていたのである。 長州は晋作の活躍によって欧米各国から軍艦を購入するなど、軍備の西洋化に務め、徹底抗戦の構えを見せる。 慶応2年(1866年)、長州と幕府は再び衝突することになった。 長州の周囲4方向から兵を進める幕府軍。前回同様、圧倒的な戦力差があったが、今回は智将・晋作がいる。海軍総督として軍艦の指揮を執り、九州・小倉藩への上陸作戦を決行する晋作。 大久保海岸から作戦を展開する別働隊と連動する形で、晋作の隊は田の浦に上陸する。 死んでいった同志たちのため、日本を近代国家へ導くため、身分を越えて一致団結した長州軍の戦いが始まった。 |
西郷隆盛 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 禁門の変 | 西郷隆盛は文政10年(1827年)、下級藩士の子として薩摩藩に生まれる。 隆盛の卓越した才能とおおらかな人柄は、藩主・島津斉彬の知るところとなり、御庭方に大抜擢される。 斉彬は幕府にも認められるほどの才人だった。そんな主の背中を見ているうちに、隆盛も新しい時代の創生を夢見るようになる。 しかし、斉彬は急死。弟・久光が藩主の父として藩の実質的な指導者となった。 その頃、安政の大獄が始まり、尊攘の同志である月照という僧が追われる身となる。隆盛は同情し薩摩に匿おうとするが、藩はこれを拒否。責任を感じた隆盛は月照と共に身投げする。 一命を取りとめた隆盛だったが、久光はこの行動に激怒し、流刑を言い渡した。一度は許されるものの、再び久光の逆鱗に触れ、隆盛は再度流される。 元治元年(1864年)、薩摩藩は複雑化する情勢の中で、隆盛の人望や政治力を無視できなくなり、藩政の座に呼び戻す。 その頃、長州藩は八月十八日の政変で失った勢力を回復するため、武力行使に出ようとしていた。 ちょうど京に滞在していた隆盛は、禁裏に兵を進める長州藩を迎え撃つため、戦いに参加する。 |
事件 弐 | 長州会談 | 禁門の変によって、長州は完全に朝敵となった。 長州を討つ名目ができた幕府は、諸侯に派兵を求める。薩摩も兵を出すことになった。 征長軍の総督は徳川慶勝に決定し、隆盛はそれは補佐する参謀に任命される。 しかし、その心中は複雑だった。日本が1つにならなければ諸外国の侵略を免れないと考えていた隆盛は、長州を存続させる道を模索する。 長州は八月十八日の政変で都を追放された、5人の公家を保護していた。その五卿を手放すことを停戦の条件の1つとして、長州に提示したのである。 これに対し、徹底抗戦を主張する一派が異を唱えた。彼らは正義派と称し、恭順を示そうとする保守派を俗論党として弾劾する。 停戦による長州存続を果たすため、隆盛は自ら正義派を説得しようと決意した。しかし、薩摩は会津と並び、長州を窮地に追い込んだ仇敵である。特に同じ尊攘を掲げる薩摩人に対し、強いが憎悪あった。 隆盛は危険を承知の上で、正義派と関わりの深い五卿付きの土佐浪士・中岡慎太郎と奇兵隊総督・山県狂介に会うため、単身、下関に乗り込む。 |
事件 参 | 薩長同盟 | 第一次長州征伐は、長州が三家老の切腹と五卿移転によって恭順を示したことにより終結した。 隆盛は、薩摩藩と長州藩が手を組んで倒幕を進められないかと画策する。 しかしそのためには、薩摩との連合を良しとしない長州・正義派の志士たちと話し合いを持たなければならなかった。 橋渡しを行える人物として土佐浪士・坂本龍馬と中岡慎太郎の顔が浮かんだ。 中岡は先の長州征伐で隆盛に理解を示してくれている。龍馬は幕臣・勝海舟を紹介し、隆盛に雄藩連合の道を示してくれた人物だ。 龍馬たちは隆盛の考えを汲み、長州藩士・桂小五郎との会談を計画する。しかし、隆盛が急きょ、京に呼ばれたため、会談は流れた。 慶応2年(1866年)1月。再びその機会が訪れる。朝廷から長州再征の勅命が下ったのだ。 1月22日。京都・小松帯刀邸で隆盛は桂と会談を行う。しかし、そこに仲立ちを行うはずの龍馬の姿はなかった。 |
最終事件 | 鳥羽伏見の戦い | 薩摩藩はついに長州藩と同盟を結んだ。 この薩長同盟は、幕府による2回目の長州征伐に大きな影響を及ぼす。 頼みの薩摩が加わらないことで、幕府は長州に苦戦を強いられる。結局、幕府は十四代将軍・家茂の死去をきっかけに兵を引いた。 十五代将軍の座に就いたのは、一橋家出身の慶喜であった。慶喜は土佐藩士・後藤象二郎らの強い勧めで大政奉還を決意する。 しかし、この決定には裏があった。政権を放棄したかのように見せかけ、朝廷の下で諸侯の主導権を握るつもりだったのだ。 それを見抜いた薩長は、王政復古の大号令で天皇親政を宣言。さらに小御所会議で徳川の領地返還を申請する。 慶喜はその決定に従うが、幕臣は反発。薩長に対し、攻撃を開始する。 この瞬間、幕府は朝敵となった。新政府軍は朝廷から倒幕の密勅が下っていたのだ。 こうして鳥羽伏見の戦いが始まった。 隆盛は官軍の指揮官として参加。劣勢を跳ね返し、旧幕府軍や新撰組を伏見奉行所まで追い詰める。 |
中村半次郎 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 寺田屋事件 | 学はなくとも腕は立つ。 天保9年(1838年)、薩摩に生まれた中村半次郎は、藩内でも屈指の剣術家であった。 郷士という身分の低さから多くの人間に軽んじられていた半次郎に対し、西郷隆盛は1人の武士として接する。半次郎は、その人間の大きさに心を動かされ、波乱の人生を踏み出した。 西郷の影響で政治情勢に興味を持った半次郎は京に上る。素朴な人柄と剣の腕が尊攘志士との交流に役立った。 半次郎は自分の無学を補うように、示現流を極めた剣術で暗殺に明け暮れ、「人斬り半次郎」とまで言われるようになる。 当時、薩摩藩の実権は藩主の父、島津久光が握っていた。久光は公武合体の立場を取っていたが、藩内には過激な尊攘運動に走る者も少なくない。 文久2年(1862年)4月、公武合体の勅許を得るために上洛していた久光の耳に、幕府に対する武力行使を計画する志士たちが寺田屋に集結しているという情報が入った。藩士の暴走を恐れた久光は、大久保利通たちに説得を命じる。聞き入れなかった場合は武力鎮圧も辞さない覚悟だった。 大久保の護衛として同行する半次郎だが、同郷の士を斬るのは気が進まない。話し合いで解決することを祈りながら、過激派藩士が待つ寺田屋へと向かった。 |
事件 弐 | 密談 | 長州派活発な尊攘活動によって、朝廷への発言力を高めていった。 一方、薩摩は過激派藩士の暴走や諸外国の戦いによって、勢いを失う。そこで巻き返しを図るため、会津藩と手を組み、長州を追い落とす計画を立てた。 この動きを察知した長州派京都市中に密偵を放つ。なんとしてでも二藩の同盟は阻止しなければならなかった。 長州の洛外追放を画策する中川宮は、薩会両藩に密書を送る。それを受け取る任務が大久保利通から半次郎へ下った。 密偵の目を盗んで中川宮の使者に接触するため、半次郎は京の街に紛れ込む。 |
事件 参 | 禁門の変 | 文久3年(1863年)、薩摩藩は会津藩と同盟を結ぶことで、長州を京から追放することに成功した。 この八月十八日の政変で勢力を削がれ、池田屋事件で優秀な志士を失った長州派、起死回生を図るため、調停に直接訴えるという手段に出る。 これを阻止せよという命令が、禁裏を守る各藩に下った。堺町御門を警護する薩摩藩。その中に半次郎もいた。 西郷の傍らで政治感覚を学んだ半次郎は、もはや無学な剣士ではなかった。西郷が成し遂げようとしている偉業のため、命を投げ出す覚悟を決める。 やがて長州軍が御所門に到達し、戦闘が始まる。薩摩軍は来島又兵衛に率いられた部隊と衝突することになった。 |
最終事件 | 鳥羽伏見の戦い | 慶応2年(1866年)、土佐浪士・坂本龍馬の仲介により、薩長同盟が結ばれた。長州側の代表は桂小五郎、薩摩側は西郷隆盛である。対立していた長州へのわだかまりを捨て、西郷は同盟に踏み切る。 同盟は第二次長州征伐で長州側に勝利をもたらした。これをきっかけに倒幕運動は活発化していく。 幕府は朝廷に政権を返上した上で、大政奉還後も政治の主導権を握ろうと考えるが、それに対しあくまで幕府の打倒を目指す倒幕派は、王政復古の大号令を発令。小御所会議では徳川の領地返上を決定し、幕府に追い討ちをかけた。 窮地に陥った幕府は、ついに武力による抵抗を決意し、鳥羽伏見の戦いが開戦する。 西郷は半次郎に軍人としての素質を感じ、将校として一部隊を任せることにした。 その期待に応えるため、半次郎は新撰組や幕府軍の前に立ちはだかる。 |
河上彦斎 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 佐久間象山暗殺 | のちに「人斬り」の異名を持つようになる河上彦斎は天保14年(1843年)、肥後藩士・小森貞助の子として生まれる。 河上源兵衛の養子となった後、国家老の元へ茶坊主として出仕。 剣の腕もさることながら、儒教・国学・兵学などを身に付け、文武両道の俊傑として知られるようになる。 やがて、その学問は彦斎を尊攘活動へと向かわせる。 長州の尊攘活動が激化する流れを受けて、彦斎は京に上った。 得意の居合術は暗殺に適していたが、彦斎自身はあまり人を斬ることを好まなかった。それでも、時代の変節に犠牲は付きものと考え、思想のために暗殺を行うようになる。 そこへ八月十八日の政変が起こり、彦斎は長州に身を寄せた。 しかし、池田屋彦斎事変がを再び歴史の表舞台へと駆り立てる。兵学の師だった宮部鼎蔵が池田屋で新撰組に討たれたのだ。 状況を変えるため、彦斎は密かに京へ戻ってきた。現状を変えるためにはやはり剣の力が要る。 彦斎は公武合体を唱える佐幕開国論者・佐久間象山を討つことこそ、国を変えるために必要だと考え、三条小橋付近で佐久間を待ち伏せすることに決めた。 |
事件 弐 | 禁門の変 | 佐久間象山暗殺によって、彦斎の中で何かが変わった。かつては容赦なく剣を振るっていた彦斎だが、それ以降、暗殺任務から手を引くようになる。 それでも、彦斎の尊攘に対する熱意は冷めることはなく、長州藩と共に尊攘活動を展開する。 しかし、その長州にかつての勢いはなかった。八月十八日の政変、池田屋事変で勢力の大半を失ってしまった。 そこで形勢逆転を狙う武力行使を決意。彦斎もこれに参加することになる。 長州家老・国司信濃率いる部隊に加わる彦斎。国司隊は来島又兵衛の部隊と共に天竜寺方面から進軍し、西側から京を目指す。筑前藩・桑名藩がその行く手を阻んだ。 山崎方面からは久坂玄瑞や益田右衛門介、真木和泉率いる部隊が、伏見方面からは福原越後の部隊が同時に京へ攻め込む。 元治元年(1864年)。 ここに禁門の変と呼ばれる戦いが始まる。 |
事件 参 | 第一次長州征伐 | 長州藩は禁門の変で敗れ、完全に朝敵となった。 幕府はこの勢いに乗じて、長州を完全に攻め滅ぼす覚悟を決める。そこで薩摩藩などの力を借り、元治元年(1864年)、長州征伐に乗り出した。 その頃、彦斎は禁門の変の敗残兵と共に長州へ落ち延びていた。 しかし、彦斎の尊攘思想はまったく揺らぐことがなかった。むしろ、苦しい経験が彼の志をよりいっそう強いものにしていく。 大挙して攻めてくる幕府軍に臆することなく、彦斎は進んで剣を取って戦った。 緒戦での功績を認められた彦斎は同志から隊長に推挙されるが、これを拒む。 軍を率いて戦うよりも、京都での経験を活かした隠密行動をするほうが自分には合っていると考えたのである。 彦斎は自ら斥候役を買って出て、幕府軍の駐留する山口を目指すが、目的地にたどり着くには行く手を遮る番所を突破しなければならなかった。 |
最終事件 | 第二次長州征伐 | 第一次長州征伐は彦斎たち勇敢な志士の健闘も空しく、藩が3人の家老を切腹させ、幕府に恭順を示すという形で決着を迎えた。 藩の弱腰な決定に業を煮やしたのが、高杉晋作をはじめとする正義派の志士であった。 彼らは恭順策を推し進めた椋梨藤太らを藩から追放。長州は再び幕府に牙を剥くことになる。 幕府は再び長州に兵を送り込んできた。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が始まる。 しかし、2年前とは状況が変わっていた。長州藩の主導権を握っているのは尊攘派であり、彼らは幕府に対し、徹底抗戦の構えを見せる。 また、今回は薩長同盟を結んで、薩摩藩の協力を取り付けていた。それに加えて、軍艦を買い付け、西洋式の兵装を整えている。 彦斎はこの戦いにも身を投じた。 幕府軍は周防大島、芸州口、石州口、小倉口の四方から長州に攻め入る。長州は周防大島を陥とされたものの、高杉晋作率いる海軍によってこれを奪回。 勢いづいた長州軍は大久保海岸と田の浦の2方面から幕府を迎撃。田の浦を攻撃する部隊の中に彦斎の姿があった。 |
近藤勇 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 京洛の風 | 天保5年(1835年)、近藤勇は農民の子として生まれた。 天然理心流三代目宗主・近藤周助に見込まれた勇は、近藤家に養子として入り、四代目宗主を襲名する。 その頃、天然理心流道場・試衛館には、土方歳三、沖田総司、永倉新八、原田左之助、山南敬助といった食客が集い、剣術を磨いていた。 文久3年(1863年)、幕府は将軍上洛に伴い、警護のために浪士組を結成する。 町道場の宗主として一生を終えたくないと考えていた勇は、食客たちを従え、その募集に応じた。 京に着いた勇は、浪士組の仕掛人・清河八郎の本心を聞いてがく然とする。浪士組を幕府のためではなく、朝廷のための組織にするというのである。 幕府もそれを知って驚き、浪士組を江戸に帰還させる。しかし、あくまでも将軍警護の任に拘った勇たちは、同じく清河に反発した水戸浪人・芹沢鴨の一派と共に京に残った。 芹沢の人脈により、残留浪士たちは「京都守護職預かり壬生浪士組」という身分を手に入れる。 勇は今後のことを話し合おうと、見識の広い山南を散歩に連れ出した。 |
事件 弐 | 池田屋事変 | 文久3年(1863年)、薩摩藩が長州藩の独走を危険視し、会津藩と結び朝廷を利用して長州の追放を計画する。 その際、京都守護職である会津藩主・松平容保から壬生浪士組に出動命令が下り、堺町御門の警護にあたった。 この八月十八日の政変における活動がきっかけとなり、壬生浪士組は新撰組と改名する。 勇は局長として、自分たちへの評価に感動し、さらなるまい進を誓う。 一方、もう1人の局長・芹沢とその一派にとって、周囲の期待は横暴さを助長する原因にしかならなかった。 会津藩は、暴走する芹沢たちの粛清を勇に命じる。土方、沖田の手によって芹沢が討たれると、新撰組は勇が理想とする士道に基づいた剣客集団への道を突き進むこととなった。 元治元年(1864年)、長州藩を中心とする急進派尊攘論者たちは、都に火を放ち、天皇を奪おうという大胆な計画を立てる。 薪炭商・枡屋喜右衛門に扮した尊攘浪士・古高俊太郎の自白によって露見したその計画は幕府を震かんさせた。 しかし会津藩は腰が重く、業を煮やした勇は、独断で不逞浪士の会合現場襲撃を決断する。 会合場所特定のため、新撰組は二手に分かれた。勇は一隊を土方に任せ、四国屋方面に派遣。もう一隊を自ら率いて池田屋方面の捜索を開始する。 |
事件 参 | 天王山追撃 | 池田屋事変は、八月十八日の政変で京を追われた長州藩にさらなる打撃を与えることになった。 長州は、なんとか都での勢力を回復したいと考え、追放された7人の尊攘派公卿と共に直接朝廷に訴えるという行動に出る。 これに対し、薩摩、会津、桑名各藩が長州の御所入りを武力で阻んだ。両者は衝突し、禁門の変と呼ばれる戦いに発展する。 都を戦火に包むほど激しい戦闘の末、長州は敗北。新撰組も伏見方面で会津藩や京都見廻組と共に長州軍を撃退する。 士気の上がった新撰組に、浪士隊総監・真木和泉率いる残党の追撃命令が下った。 勇は精鋭部隊と共に、残党が立てこもる天王山へと向かう。 |
事件 四 | 奇襲 | 文久4年(1864年)、新撰組に伊東甲子太郎とその一派が加入する。伊東は山南と同門の北辰一刀流を極め、江戸では名の知れた思想家でもあった。 この才人を迎えることで新撰組は思想面からも強化しようと考えた勇だが、逆に隊の分裂を引き起こす原因となってしまう。 伊東は勤王派だった。そのため、幕府に対して絶対的な忠誠を誓う勇や土方たちと思想的なあつれきが生じる。試衛館時代からの盟友・山南は対立する両者の間で悩み、ついには隊を脱走。切腹に処される。 最初は勇に勤王思想を植えつけようと考えていた伊東は、それが不可能だと悟ると一派を引き連れ、新撰組を去る。 御陵衛士を結成した伊東は、危険な佐幕主義者である勇を暗殺しようと考えた。 しかし、斉藤一によって事前に情報をつかんだ勇たちは、逆に伊藤を誅殺。残された御陵衛士も油小路の変で敗走する。 生き延びた篠原泰之進ら御陵衛士残党は新撰組に復讐するため、伏見街道沿いに姿を隠し、勇を急激しようと息を潜めていた。 |
最終事件 | 離別 | 慶応4年(1868年)1月、旧幕府軍と新政府軍による鳥羽伏見の戦いが勃発する。 御陵衛士残党によって重傷を負わされた勇は、戦闘に参加することができなかった。新政府軍の近代兵器の前に、新撰組は撤退を余儀なくされる。 勇は満身創痍の新撰組と共に江戸へ帰還。幕府は新撰組に甲陽鎮撫隊として甲府城に向かわせるが、新政府軍に先を越されてしまう。 思想の違いから永倉と原田が隊を離れ、沖田が病のため戦線を離脱すると、勇にはわずかな隊士と旧友・土方、そして幕府への忠義心しか残されていなかった。 軍の再編のため、勇は下総・流山に陣を張る。その存在はすぐに新政府軍の知るところとなり、本陣は完全に包囲されてしまう。 勇は佩刀・虎徹を握り締め、武士として最後の覚悟を決める。 |
土方歳三 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 熱き想い | バラガキ。 それが土方歳三のあだ名であった。 多摩地方の方言で、「乱暴者」を表わす。 歳三はまさに正真正銘のバラガキだった。 天保6年(1835年)生まれ。生家は多摩郡石田村の豪農である。 一時は奉公人として商人の道を目指していた土方だが、水が合わず出奔。家伝の薬「石田散薬」を売り歩く日々を過ごしていた。 歳三は武士に対して強い憧れと理想を抱いている。そのため、平和な時代の中で腐りきった役人たちを見ていると、武士の魂を汚されたような気がして我慢がならなかった。 いつか自分も武士になって、本当の士道を追求してやる。その第一歩として、幼なじみの近藤勇が構える試衛館道場に出入りし、剣術修行に励んだ。 嘉永6年(1853年)、ペリーの浦賀来航をきっかけに、世の中は激動の時代へと突入する。 この機に乗じて、なにか大きなことを成し遂げてやろう。 歳三のバラガキ気質が騒ぎ始めた。 |
事件 弐 | 士道不覚悟 | 文久3年(1863年)、幕府は将軍上洛の警護を行う浪士組の募集を行った。歳三は武士になる好機と考え、近藤や試衛館の門人・食客と共にこれに加わる。 しかし、浪士組結成には策士・清河八郎の思惑があった。清河は浪士組を朝廷のために働く組織にするつもりだったのだ。 そのことを知った近藤は、清河に反発する。浪士組は程なく江戸に戻されることになったが、歳三たち近藤一派は、朝廷よりも武士の頭目である幕府に仕えることを選び、今日に残った。 同じく残留した水戸藩士・芹沢鴨の一派と共に、京都守護職預かり壬生浪士組を結成。不逞浪士の取締りを始める。 その5ヵ月後、京で八月十八日の政変が起こった。ここでの働きを認められた壬生浪士組は、新たに「新撰組」の名前を預かる。 ついに自分も武士となったことを実感した歳三は、新撰組を通じて理想の武士像を表現しようと考える。 しかし、芹沢一派は商人に押し借りを行ったり狼藉を働く等、暴虐の限りを尽くしていた。それは歳三の求める士道に反した行いである。 事態は京都守護職の耳にも入り、近藤一派に芹沢粛清の命が下った。 実行のためには、芹沢を孤立させる必要がある。折りよく、芹沢の側近・新見錦の素行不良が発覚した。 詰問の末、切腹に追い込むため、歳三は新見の滞在する遊郭へと向かう。 |
事件 参 | 芹沢鴨暗殺 | 新見錦の切腹により、隊内における芹沢派の勢力は着実に弱まった。 芹沢は新見の死を不審に思い、近藤たちに疑いの目を向ける。今や新撰組は完全に近藤派と芹沢派に分裂していた。 それでも芹沢の狼藉が改まることはなかった。それどころか、ますます激しさを増していく。 歳三は潮時だと思った。 いよいよ芹沢を討つ。 文久3年(1863年)9月16日。近藤は島原の角屋で酒宴を開いた。 相当量の酒を飲んだ芹沢たちは、泥酔したまま壬生の屯所へ戻る。 歳三は芹沢たちが完全に眠ったことを確認すると、沖田と共に屯所に忍び込んだ。 |
事件 四 | 池田屋事変 | 芹沢鴨の死により、新撰組は完全に近藤一派のものとなった。 歳三は副長として、局長・近藤を補佐。鉄の隊規を定め、隊士たちから「鬼の副長」と恐れられた。 元治元年(1864年)、新撰組は枡屋喜右衛門と名乗る薪炭商の店に、不逞浪士が出入りしているという情報を入手する。 喜右衛門の正体は尊攘浪士・古高俊太郎だった。新撰組は古高を捕らえ、長州藩を中心とした不逞浪士による京都焼き討ち計画を聞き出す。 計画を阻止し、首謀者たちを一網打尽にするため、新撰組が動いた。捜索隊を2つに分け、不逞浪士たちの会合場所の特定を急ぐ。近藤は池田屋方面、歳三は四国屋方面に、それぞれの部隊を率いて捜索に出た。 |
事件 五 | 鳥羽伏見の戦い | 池田屋事変によって、新撰組はその勇名を広く知らしめることになった。しかし、新たに参入した伊東甲子太郎の存在が隊内に不穏な空気をもたらした。 まず、江戸以来の盟友・山南敬助が脱走の咎で切腹。続いて、伊東派隊士が分離し、御陵衛士なる勤王派組織を結成した。 歳三は伊東を暗殺し、その仲間たちを油小路にて討伐。しかし、それは新撰組崩壊への序曲に過ぎなかった。 幕府が大政を奉還し、政権が朝廷に移ったのである。その後、王政復古の大号令、小御所会議によって、雄藩連合の盟主として実質的な実権を握ろうという幕府の思惑はもろくも崩れ去る。 慶応4年(1868年)、新政府軍の横暴に耐えたねた幕臣は、ついに武力をもって対決することを決意した。 新撰組にも出陣命令が下るが、近藤は御陵衛士残党に襲撃され負傷、沖田は肺病によって戦線を離脱している。 残された自分にできることは何か。歳三の頭には「士道」の二文字しかなかった。 この戦いに勝利して、真の士道を示す。 強い決意を胸に新撰組の指揮を執る歳三。西郷隆盛率いる新政府軍はすぐそこまで迫っていた。 |
最終事件 | 箱館総攻撃 | 鳥羽伏見の戦いに敗れ、新撰組は江戸に撤退した。幕府は近藤に甲府城確保を指示するが、作戦は失敗に終わる。 その後、流山に落ち延びた際、近藤は新政府軍に投降。武士として切腹することも許されず、斬首に処せられた。 歳三はわずかに残った武士を率いて、宇都宮、会津と転戦を続ける。 しかし、勢いづいた新政府軍に押され、明治元年(1868年)10月、歳三は幕臣・榎本武揚らと共に蝦夷へ渡った。 旧幕府軍は箱館・五稜郭に本拠地を移し、歳三は陸軍奉行並に任命される。 新政府軍が箱館に押し寄せる中、榎本たち旧幕臣たちは篭城を唱えた。しかし、歳三はただ1人、徹底抗戦を主張する。最後まで幕府のために戦うことこそ、彼の信じる「士道」だと考えていたのである。 明治2年(1869年)、ついに新政府軍が総攻撃を開始する。もはや隣で戦ってきた近藤や沖田たちの姿はない。志半ばに倒れた同志たちの無念を背負い、歳三は決死の覚悟で出陣する。 |
沖田総司 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 誠の誓い | 新撰組最強の剣士とも言われる沖田総司は天保13年(1842年)、江戸に生まれた。 父・勝次郎は白川藩の下級武士だったが、総司の幼少期に他界。その後、天然理心流の道場・試衛館に預けられる。 天然理心流を学んだ総司は、十代で免許皆伝を受け、塾頭を務めるほどの使い手に成長する。 やがて、その剣術を最大限に活かす機会が訪れた。 天然理心流の四代目宗家・近藤勇が、京にはいかいする不逞浪士取締りを行う浪士組の募集に応じたのである。 近藤を兄のように慕っていた総司もそれに参加し、京に上ることになった。 しかし、浪士組結成を呼びかけた清河八郎から、浪士組が幕府のための組織ではなく、勤王集団であることを告げられる。浪士組は江戸に戻ることになったが、清河の意見に反発した近藤たちは京に残ることを決意。 共に残留を表明した水戸脱藩浪士・芹沢鴨らと共に京都守護職預かりの壬生浪士組を結成する。 総司もその一員として不逞浪士の取り締まりに参加。壬生浪士組は幕府の剣客集団として次第にその名を知られるようになる。 そのうちに、壬生浪士組の名を騙り、商屋などから金品を巻き上げる者が現れた。 男の名は石塚岩雄。 総司は、壬生浪士組、ひいては近藤の名を汚す者が許せなかった。そこで、石塚が潜んでいると思われる界隈に向かう。 |
事件 弐 | 池田屋事変 | 文久3年(1863年)、会津藩は薩摩藩と手を結び、過激な尊攘活動を計画する長州藩を京から排除する強攻策を取った。 八月十八日の政変と呼ばれるこの事件に、京都守護職預かりである壬生浪士組も参加。その戦功を認められ、「新撰組」という名称が与えられた。 その一方で、芹沢一派による暴挙が目立ち始める。京都守護職は近藤に芹沢らの排除を命じた。総司も芹沢暗殺の任務に加わり、その結果、新撰組の実権は近藤が握ることになる。 総司は近藤の出世を喜び、自分の剣がその役に立っていることを誇りに思った。 元治元年(1864年)、尊攘派の動きが再び表面化する。八月十八日の政変で、長州と共に京を追われた倒幕派志士・宮部鼎蔵は、長州の吉田稔麿らと協力し、天皇を長州に連れ去ろうと画策していたのだ。 その情報を捕縛した古高俊太郎から聞き出した新撰組は、計画を未然に防ぐため、宮部らの集会所襲撃に踏み切る。 しかし、場所の確定が間に合わず、新撰組は池田屋方面を捜索する近藤隊、四国屋方面を捜索する土方隊の2隊に分かれ、捜索を開始。総司は体の不調を感じながらも、近藤隊に加わり、その捜索にあたる。 |
事件 参 | 山南敬助捕縛 | 陸奥脱藩浪士・山南敬助は試衛館時代から総司と親睦が深かった。 山南の温和な性格に、総司は近藤や土方たち同門の先輩とはまた違った陽だまりのような心地よさを感じる。 また、天然理心流と北辰一刀流、流派こそ異なるが、その卓越した腕前を互いに認め合う仲だった。 池田屋事変を境にますます一目置かれるようになった新撰組をさらに大きな組織に変えていくため、近藤は江戸から伊東甲子太郎を呼んで、新撰組に招き入れる。 伊東は水戸で学問を学んだ俊才であった。また、北辰一刀流の優れた使い手でもある。 しかし、伊東は勤王思想の持ち主だった。 同じく勤王思想を抱き、現在の新撰組のあり方に疑問を抱いていた山南にとって、剣術の同門でもある伊東の加入は大きな動揺となったのである。 ある日、山南は書き置きを残し、突然、隊を脱走した。局中法度において、脱走は死罪と定められている。 総司は脱走の理由を直接問い質したいと考え、山南の追手を志願した。 |
最終事件 | 残照 | 脱走罪による山南の切腹は、総司に深い悲しみを与えた。 その後、伊東一派が新撰組から離脱。御陵衛士として、勤王集団を結成する。 新撰組と御陵衛士。かつては共に戦っていた両者だが、その思想の違いにより戦いは避けられない運命にあった。 やがて、近藤暗殺を企てた伊東が逆に近藤たちの計により討たれる。その復讐に立ち上がった御陵衛士も、油小路にて新撰組に敗れ、潰走。 しかし、時代の奔流によって、新撰組は次第に窮地においやられることになる。 十五代将軍・徳川慶喜によって大政奉還がなされ、国家の主権は将軍家から天皇に移った。朝廷はただちに王政復古の大号令を発して、幕府側をさらに追い詰める。 その頃、総司は肺病が悪化したため、戦いの一線を退いていた。敬愛する近藤や新撰組の仲間たちの窮地に、自分が駆けつけられないことを悔しく思う総司。 やがて、総司が近藤の妾宅で療養しているという情報が御陵衛士残党の知るところとなる。彼らにとって、新撰組は伊東や仲間たちを斬った仇敵。 総司に復讐の刃が忍び寄る。 |
芹沢鴨 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 嵐の予兆 | その男は、若い頃から「我が道を往く」という言葉が似合う人物だった。 男の名は木村継次。 水戸藩の出身で、文武館師範方・木村三穂之助を兄に持ち、自らも神道無念流を取得して類稀な剣術の腕を持っていた。 そして、その腕っ節の強さが、彼を自信家へと成長させることになる。 安政5年(1858年)、日米修好通商条約を結んだ幕府に激怒した朝廷は、水戸藩に攘夷の密勅を下す。 これを知った幕府は、即座に勅状返上を命令。 水戸藩内部ではあくまで幕府に従おうという保守派と、勤王色の強い尊攘派に分かれて意見を争うも、藩政は前者に傾き、遂に勅状の返上を決定した。 それを阻止しようと考えたのが、過激な攘夷派の志士たちである。 その中に、継次の姿もあった。 自分ほどの力があれば時代を変えることも不可能ではないと考えた継次は、大胆にも保守派藩士・国友忠之介の殺害を計画する。 |
事件 弐 | 大篝火事件 | 万延元年(1860年)、桜田門外の変で弾圧の指揮を執っていた大老・井伊直弼が斬られ、時代は大きく動こうとしていた。 徒目付・国友忠之介を襲撃して自信を深めた芹沢は「今こそ名を挙げる好機」と考え、仲間の平山五郎らと共に江戸を目指す。 文久3年(1863年)、幕府は京都での将軍護衛のため、浪士組結成を計画。その立役者は尊攘論者・清河八郎だった。 芹沢は平山たちを連れ、この浪士組に参加する。同じく浪士組募集に参じた者たちの中には、のちに芹沢と並んで新撰組局長となる近藤勇もいた。 尊攘の志士として水戸で勇名を馳せていた芹沢は隊長格の待遇を受ける。一方、小さな町道場の宗主に過ぎない近藤は、道中の宿割りを担当する役目に就いた。 しかし、本庄宿に着いた時、近藤は芹沢たちの宿を取り忘れるという手違いを犯す。 これに芹沢は激怒。近藤に対するあてつけで、野宿をしてやろうと宿場内で大きな篝火を焚きはじめた。 |
事件 参 | 大阪力士乱闘事件 | 清河は、入洛した浪士組一行に尊攘運動の先駆けとなることを求めた。 当初の目的とは正反対の役割に混乱する浪士たち。幕府も狼狽し、浪士組を江戸に呼び戻すことに決める。 しかし、清河のやりかたを小賢いと感じた芹沢は将軍護衛という目的を果たすため、京に残った。 もう1人、残留の意を表明した者がいる。天然理心流宗主・近藤勇である。 残留した者たちは芹沢の周旋によって「京都守護職預かり」の身分を受け、壬生浪士組が誕生。芹沢と近藤は共に局長の座に就くことになった。 次々と不逞浪士を取り締まることにより、実力を知らしめる芹沢たち。その活動範囲は大阪にまで及んだ。 ある時、任務を終えた浪士組一行が夕涼みのため堂島川沖から帰る途中、蜆橋付近で大阪力士の集団と遭遇する。 力士たちは浪士組に道を譲らなかった。腹を立てた芹沢たちは力士を斬りつける。 力士たちは形成の不利を悟って逃亡。 しかしその夜、力士たちは復讐のため、壬生浪士組が宿泊する住吉屋にやってきた。 |
事件 四 | 大和屋焼き討ち | 「京都守護職預かり」という身分ではあるものの、相次ぐ天誅騒動のため隊士を増員した壬生浪士組にとって、資金繰りは頭の痛い問題であった。 芹沢は故郷の兄に金を無心するなど、なんとか状況を打開できないものかと思索をめぐらせる。 そんな折、生糸商・大和屋が不逞浪士に金を貸したという情報を入手した。 それを聞いた芹沢は、大和屋に因縁をつけて壬生浪士組にも軍資金を提供させるという計画を立てた。 近藤たちは決してよい顔をしなかった。彼らはあくまで潔癖を貫き、浪士組を正義の組織とすることに拘っていたのだ。 しかし、身分意識の強い芹沢は近藤の考えを歯がゆく感じる。 それならばと、局長という立場を利用し、独断で大和屋を脅迫して金を搾り出そうと出向いた。 しかし、大和屋はあくまで強気の立場を貫く。商人が武士に逆らうなど言語道断と、芹沢はその態度を不快に思った。 そこで、大和屋主人・庄兵衛に対し、力による制裁を加えることにする。 |
最終事件 | 対決 | 文久3年(1863年)、長州の過激な尊攘思想が八月十八日の政変を引き起こす。 芹沢たち壬生浪士組は、御所の警護に出動し、その功を認められて「新撰組」という隊名を授かる。 水戸を出奔して5年。芹沢はようやく自分の力が認められたことを誇りに思った。 もはや、この京において自分の力は絶対である。逆らう者はすべて斬るつもりでいた。 その暴虐な振る舞いに、隊内の近藤派は震かんした。自分たちはあくまで不逞浪士を取り締まる組織であり、狼藉者の集団ではない。 会津藩との間を取り持った芹沢に遠慮して今まで口を出さずに耐えてきた近藤たちも、ついに我慢の限界に達する。 新撰組を預かる会津藩の中にも、芹沢の素行を問題視する者が出てきた。そこで近藤たちに芹沢粛清の密命を下す。 しかし、芹沢の周囲には強力な同志たちが顔を揃えていた。芹沢自身、相当な剣の使い手である。 近藤はまず、芹沢の右腕、新見錦を素行不良のかどで切腹させた。 しかし腹心である新見が粛清されたにも関わらず、芹沢は落ち着いていた。 近藤ごときに自分が斬れるはずがない。 遊郭で仲間たちと浴びるほど酒を飲み、壬生の屯所に戻ってくる芹沢。多大な自信から油断する彼に、暗殺の刃が迫っていることも知らず・・・・・。 |
佐々木只三郎 | ||
事件 | 任務 | プロローグ |
事件 壱 | 清河八郎暗殺 | 佐々木只三郎は天保4年(1833年)、会津藩士の三男として生まれた。 若くして剣の才能に目覚めた只三郎は27歳の時、幕府講武所の剣術方師範役に任ぜられる。 文久2年(1862年)、只三郎に転機が訪れた。尊攘志士・清河八郎が幕府に浪士組の設立を提案。浪士を集め、京における将軍家を護衛させるべき、と幕臣を説き伏せる。 只三郎はこの浪士組の取締役並出役に任ぜられ、京へ同行した。 しかし清河は、浪士組が上洛するや当初の目的を放棄し、尊王攘夷の先鋒として活動すると宣言。 清河の裏切りに驚いた幕府は、浪士組を江戸に戻す。 のちに新撰組を作ることになる芹沢派、近藤派を残し、帰還する浪士組。 浪士組に同行し江戸に戻った只三郎を待っていたのは、老中格・小笠原長行から発せられた清河暗殺の命令だった。 |
事件 弐 | 京都見廻組 | 清河暗殺を成功させた只三郎に、幕府の評価は一気に高まった。 元治元年(1864年)、幕府は京都見廻組を結成。只三郎も与頭勤方として加わる。 同時期、京都では新撰組が活躍していた。容赦のない不逞浪士狩りを繰り返す新撰組に比べ、見廻組は人を斬ることもままならない。 不逞浪士たちの恐怖は専ら新撰組にのみ向けられた。 正規の武士集団である見廻組が、浪士や武士以外の身分から成る新撰組に負けるわけにはいかない。 只三郎は、実戦に慣れさせるため、見廻組を率いて巡察を行った。 |
最終事件 | 坂本龍馬暗殺 | 新撰組と並んで、京における治安維持に力を尽くす只三郎たち見廻組。 しかし、倒幕に向かう時代の流れを押しとどめることはできなかった。 薩長同盟によって失敗に終わった第二次長州征伐後、幕府の弱体化が急速に進んだ。 そしてついに、十五代将軍・徳川慶喜が大政を奉還。同時に朝廷から薩長に倒幕の密勅が下る。 幕府が軍備を進める一方で、薩長両藩の橋渡しを行った土佐浪人・坂本龍馬の暗殺を只三郎に命じた。 只三郎はその背後にうごめく政治的な力を感じながらも、与えられた任務をこなすため、龍馬が潜伏する近江屋へ向かう。 |