不逞浪士討伐帳 長州藩
奥野 賢二郎 | 雲井 宅之助 | 日下部 八郎 | 関場 博行 |
和木 有宗 | 広岡 浪秀 | 葵 五兵衛 | 内田 兵吾 |
笹 十郎兵衛 | 大山 八十八 | 桂 小五郎 | 曽我 鉄心 |
丹羽 金吾 | 間宮 一角 | 吉川 静馬 | 吉田 稔麿 |
手島 小六 | 石井 文之進 | 入江 九一 | 久坂 玄瑞 |
有吉 熊次郎 | 佐伯 稜威雄 | 藤沢 寿芳 | 甲賀 彦太郎 |
神部 覚四郎 |
奥野 賢二郎 (おくの けんじろう)
攘夷という理想を叶えるべく、十八歳で上洛。 桂小五郎の使いで一時江戸に赴くも、再び京に戻り同志間の連絡役として活躍していた。 海辺沿いの村の出身なのだが、実は特産の牡蠣がもの凄く苦手である。
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雲井 宅之助 (くもい たくのすけ)
長崎で蘭学を学び、帰郷後は地元で小さな診療所を開く。 吉田松陰とも交流があり、彼の弟子達が次々と上洛するのを見て、何か役に立てればと思い自身も上洛した。 上洛後は、仲間内の救急係として大いに頼りにされていた。
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日下部 八郎 (くさかべ はちろう)
生後間もなく、同じ足軽である日下部勝郎の養子となる。 幼い頃から勉学に長け、十四で松下村塾に入門。 先輩であった久坂玄瑞、吉田稔麿らに影響され、十七で上洛する。 上洛後は京屋敷に留まり、幕府の内情を探る等の密偵を行っていた。
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関場 博行 (せきば ひろゆき)
後継ぎである格乃進とは兄弟のように仲が良く、格乃進が松下村塾に入ると、影響を受けて学問に目覚めた。 吉田松陰の段獄により、連座を恐れた家族が格乃進を軟禁したため、その脱出に手を貸し、葵五兵衛と名を変えた格乃進と共に故郷を捨てた。 しかし心の奥底では、いつか故郷に帰りたいと願っていた。
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和木 有宗 (わぎ ありむね)
吉田松陰に直接教えを受けたことはないが、松下村塾の塾生と親交があり、その思想に影響を受け、攘夷活動に身を投じる。 比較的早くから上洛しており、京都内において倒幕派志士達の繋ぎ役として活躍する。 八月十八日の政変を聞きつき、天皇に直訴する覚悟で京都御所に向かう。 故郷に許婚はいたが、攘夷活動の為には死を厭わぬ覚悟が必要とし、上洛の際に別れた。 だが相手は、今尚その身を案じて毎朝祈りを奉げているらしい。 槍正眼と刀の上段の二種類の構えを自在に切り替え戦う。 特に槍正眼から繰り出される豪快な横払いには注意が必要。
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広岡 浪秀 (ひろおか なみひで)
安政三年に周防国富山で黒神直民に法典を学び、尊皇攘夷論者となる。 文久二年に上洛。長州藩邸に留まり、京内の偵察を行っていた。 八月十八日の政変により京を追われた後、近江に潜伏しながら同志と連絡を取り、復権活動を続けていた。
二章 神社夜警-弐- |
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葵 五兵衛 (あおい ごべえ)
十五歳で松下村塾に入門。吉田松陰の弟子の一人となる。 松陰段獄後は、連座を恐れた家族によって自宅に軟禁状態となるも、小間使いであった関場博行の手を借りて脱出。 攘夷活動に専念するため家族とは縁を切り、名も葵五兵衛と改めた。 久坂玄瑞に心酔しており、玄瑞のためなら命を捨てる覚悟を持つ。
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内田 兵吾 (うちだ ひょうご)
十代の頃に脱藩し、一時土佐に身を寄せていた。 その頃に多くの志士と交流を持つ。 特に北辰一刀流の同門である由利孫三郎、楠元蔵と懇意にし、義兄弟の契りを交わした程であった。 由利の妹と互いに思い合っていたが、義兄弟である楠の許婚であったために身を引き、密かに土佐を離れた。後に長州に戻り、上洛後は攘夷急進派の一人として活躍した。
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笹 十郎兵衛 (ささ じゅうろうべえ)
二十歳の時に出家し、名を桂林と改める。 出家後、しばらくは念仏三昧の日々を過ごしていたが、日々高まる攘夷運動に影響され、三十歳で還俗。 京でこそ攘夷活動を行う意味があるとし、元治二年に上洛した。 上洛後は自ら天誅を行うなど、積極的に活動した。
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大山 八十八 (おおやま やそはち)
後に下級藩士大山家の養子となる。 早くから尊皇攘夷を提唱し、万延元年に京へ上洛。 攘夷急進派として、数多くの天誅を行う。 最初は純粋な攘夷思想から天誅を行っていたが、次第に人を斬ることに魅せられてしまい、今では人斬りを楽しむようになっていた。 「一日一殺」が口癖だったという。
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桂 小五郎 (かつら こごろう)
藩校明倫館で吉田松陰と出会い、師事を仰ぐようになる。 後に京で藩政の中枢に参加するが、八月十八日の政変で長州藩が朝廷から撤退。 桂も追われる身となったが、京に潜伏しながら裏工作に務めた。 時には汚い装束をまとってまで逃げたことから、「逃げの小五郎」とも呼ばれる。 慶応二年、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で、仇敵薩摩と薩長同盟を結び、以後は討幕挙兵に向けて活躍した。 蛤御門の変以降、追われる身となった桂は、一時ボロをまとって二条大橋の下に潜伏し、活動を続けていた。 そんな桂に、馴染みの芸妓幾松が夜ひそかに握り飯を運び、桂の飢えを満たしていたという。 正眼から仕掛けてくる鋭い攻撃はとにかく危険。 もう一つの構えに切り替えるのを待つのも、作戦となるだろう。 島原で原田左之助と刃を交えた。 維新後、大久保、西郷等と共に明治政府の中枢となった桂は木戸孝允と名を変え、改革を進める。 だが健康を害した上、政治論で西郷と激しく衝突。 その後は大久保とも意見を違え、政府を去る。 晩年は病に悩み、四十五歳で世を去った。 西南戦争の折は病床で「西郷、いい加減にせんか」と怒鳴ったという。
五章 特殊任務-島原-[原] |
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曽我 鉄心 (そが てっしん)
手島小六とは神道無念流の同門の仲であり、一時は師範代の座を巡って争ったこともある。 自分の妹が密かに手島を想っていることを知り、それとなく勧めてみるものの、手島は一向に気付かず、その鈍感さに少し腹を立てていた。 帰郷後は、強引にでも二人をまとめようと画策していた。
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丹羽 金吾 (にわ きんご)
その際に知り合った思想家。平野国臣に大いに感化され、尊王攘夷に目覚めた。 以後は藩に戻り、脱藩の罪から一時投獄されるも許され、攘夷活動に専念する。 同い年ながらも、平野に対し崇拝に近い念を抱いており、投獄中の平野を何とか助けようとしていた。
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間宮 一角 (まみや いっかく)
貧農の生まれだったが、その頭の良さから豪商の養子となり、後に長州藩士間宮家に迎えられた。 十四歳で松下村塾に入門。吉田稔麿らと机を並べ、京へ上洛する際も行動を共にした。 普段は物静かな性格をしているが、怒りが限界を超えると誰も止められないほどの凶暴性を発揮するらしい。
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吉川 静馬 (よしかわ しずま)
裕福な豪商の生まれのため、特に不自由なく過ごしてきたが、松下村塾に出入りする友人達に影響され、攘夷思想に傾倒するようになった。 文久三年に萩西田町の商人達が中心となって組織した、商人子弟の有志からなる「市勇隊」に参加。しかし、八月十八日の政変を聞いて居ても立ってもいられず、脱退してその足で上洛した。
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吉田 稔麿 (よしだ としまろ)
十六歳で近所の松下村塾に通いだし、吉田松陰に師事する。 師である松陰からは非常に可愛がられ、その才能と努力をかって「無逸」という字を与えられる。 松陰が投獄された後は、家族の強い要望から師や同志との交友を一切絶つが、松陰の死後、攘夷活動へ身を投じた。 同志 古高俊太郎の捕縛に伴い、無謀な挙兵計画を立てる志士達との話合いをするべく、宮部鼎蔵と共に池田屋の会合へ出席。新撰組の奇襲に遭う。 吉田稔麿は視察力にも優れており、塾生を題材に描いた落書きは有名。 「鼻輪を通さない離れ牛が高杉晋作(制御無しでは収拾がつかない) 坊主頭で裃を着ているのが久坂玄瑞(廟堂に座らせたら立派な政治家) 木刀が入江九一(才はあるが、まだ本物ではない) 山県有朋(後の明治政府首相)は一本の棒切れ」 という落書きを残したと言われる。 同じ八相から、太刀筋の違う二つの攻撃を繰り出す。 攻撃の見極めが、勝負の分かれ道となる。 新撰組に踏み込まれた際、池田屋から脱出に成功するも、仲間を見捨てることが出来ず、自ら剣を取って池田屋に戻る。
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手島 小六 (てじま ころく)
武術に長け、幼少時から好んで道場に出入りしていた。曽我鉄心とは道場で知り合った幼馴染。 一時は師範代の座を巡り、争ったこともある。 密かに曽我の妹に恋心を抱いていたが、なまじ顔見知りのため興味がない態度しかとれず、京で手柄を立てたら思いを告げる決心をしていた。
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石井 文之進 (いしい ぶんのしん)
年の離れた兄に影響され、尊皇攘夷に目覚める。 一時兄と共に京へと上るが、説得され帰郷。 家族を守りつつ静かな日々を送っていたが、兄が新撰組に斬殺されたと聞き、復讐を胸に京に戻った。
四章 京都御苑夜警-弐- |
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入江 九一 (いりえ くいち)
萩土原の長州藩足軽 嘉伝次の長男。 父を亡くしてからは、江戸藩邸の下働きをして家計を助けつつ学問に励んだ。 入江についての情報を得ていた松陰は、吉田稔麿を介して来塾を勧誘するも、その時入江は公務で江戸に居た為に断念。翌年松下村塾へと入門する。 松陰の刑死後は、久坂玄瑞を筆頭に村塾の中心人物の一人となる。 師、松陰の影響を濃く受け、早くから尊皇攘夷活動に身を投じ、高杉晋作の奇兵隊設立にも尽力する。 蛤御門の変では参謀を務めた。 松下村塾内で、奔放な高杉を抑えられるのは入江と吉田稔麿くらいで、入江が「高杉さん、えらいおひどうござんすの」と言うと、高杉はこそこそと逃げ出したという。 間合いの広い攻撃を得意とする。 入江が遠い位置にいる時も、注意を怠ってはいけない。 蛤御門の変の責任を取るため、参謀であった入江は自ら刀を取って出陣するが、奮闘空しく蛤御門前で討たれた。
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久坂 玄瑞 (くさか げんずい)
荻藩医 久坂良廸の二男。 九州諸国を遊歴の後、十七歳で吉田松陰の門下生となる。 後に京都、江戸に遊学し、尊皇攘夷運動に力を注ぐようになった。 品川御殿山のイギリス公使館の焼き討ちなど、攘夷急進派として名を馳せる。 八月十八日の政変により、宮部鼎蔵らと共に京を追放され、長州へ亡命。 京都における政治勢力の回復に努めたが功なく、武力入京を提唱する一派に押される形で蛤御門の変を起こした。 十八の時に、松陰の妹である文と結婚。 文があまり美人でなかったために、久坂は気乗りしなかったが、松陰の強い勧めと、友人の「男子たるもの、妻を娶るのに容色をもって遊ぶとは何事だ。つまらん奴だ」という言にかっとなり「違う!」と言って、勢いで結婚してしまったらしい。 下段からの繰り出される突き攻撃は、間合いが広い上に、 調子を狂わす変則的なものになっている。注意が必要である。 蛤御門の変を起こした首謀者として、自ら剣を取って出陣するが、奮闘空しく長州軍は敗退。戦の責任を取るため、義兄弟の契りを交わし、常に傍らにあった寺島忠三郎と共に自刃した。
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有吉 熊次郎 (ありよし くまじろう)
文久二年、高杉晋作らと共に、品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加。 後に学習院出仕となって上京したが、八月十八日の政変のため帰国して、久坂玄瑞と八幡隊を結成した。 池田屋の会合にも出席していたが、新撰組の襲撃を潜り抜けて、高木らと長州屋敷へ逃れている。 事件の顛末を本国に伝えるため、飛脚に変装して京を出立。 本国に池田屋事変の顛末を伝えた。
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佐伯 稜威雄 (さえき いつお)
後に鈴屋八幡宮司の養子となり、佐伯姓を名乗る。 八月十八日の政変で、長州藩寄りの公家が朝廷から追放されたことに憤激し、家を出て山口の八幡隊に入隊した。 文久三年には上方探索役に加わり上洛。 古高俊太郎の手引きを受けて公卿屋敷に出入りし、朝廷の内情を探っていた。 池田屋事変当夜の会合にも出席しており、乱闘中に重症を負うが、脱出に成功。 以後、新撰組に復讐する機会を狙っていた。
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藤沢 寿芳 (ふじさわ としよし)
後に近隣の足軽 藤沢家に養子に入る。 十六の時に江戸藩邸へ奉公に赴き、そこで尊皇攘夷の志士達と交友を持つようになる。 帰郷後は松下村塾の塾生とも接点を持ち、尊皇攘夷活動へと身を投じるようになった。 蛤御門の変で多くの同志を亡くしており、本人も新撰組と刃を交え、命からがら戦闘を脱した苦い経験を持つ。それ故、辛酸を舐めさせられた新撰組に対し、いつか雪辱を晴らすべく、虎視眈々と機会を狙っていた。 総長山南脱走の報を聞き付け、追っ手をかける。 藤沢の槍攻撃は、単純な突き攻撃ながら、 動作の正確さからくる初動は捉えにくく、受けが難しい。
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甲賀 彦太郎 (こうが ひこたろう)
家族に害が及ばないよう縁を切り、名を変えた。 文久二年、年だからと周囲に反対されながらも、国の危機に居ても立ってもいられず、元治元年に上洛。その人生経験の豊富さを生かし、花町では芸妓の相談役を買って出ることが多く、十人以上の馴染みがいたという。
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神部 覚四郎 (かんべ かくしろう)
十代の頃は近隣でも名の知れた剣豪であったが、婚姻を機に剣の道から身を引き、稼業である酒屋を継いだ。 その後の商売は順調であったが、蛤御門の変で有志として参加した長男が戦死。 息子の敵を討つためと、昔捨てた剣を再び手にし、上洛した。 思想などは特に無く、ただ息子を殺した幕府軍に復讐することのみを目的としていた。
八章 神社夜警-弐- |