不逞浪士討伐帳 土佐藩
石川 潤次郎 | 馬詰 喜次郎 | 中野 伊勢武 | 由利 孫三郎 |
坂本 龍馬 | 岡田 以蔵 | 野辺 五十五郎 | 土井垣 国広 |
楠 元蔵 | 蛯名 岩太郎 | 大利 鼎吉 | 小久保 誠之進 |
今野 又三郎 | 土門 数馬 | 中岡 慎太郎 | 藤崎 吉五郎 |
宮川 助五郎 | 八重樫 半三郎 |
石川 潤次郎 (いしかわ じゅんじろう)
文久元年、土佐勤王党の結成と共に加盟。国事に奔走した。 元治元年に、藩命を受けて上京。 山内家の姻威三条家の黒谷別邸に勤仕し、勤王の志士と交流を持った。
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馬詰 喜次郎 (まづめ きじろう)
世間に流されることなく、あまり攘夷に興味を持たなかったが、幼馴染であった少女が貧困から身売りしたため、それを追って京へ上洛する。 上洛後は、島原で遊女となった幼馴染と再会。 身請けに必要な金を稼ぐため、攘夷派から天誅を請け負う等の仕事に手を染めるようになった。 後二回程の仕事で、身請け金全額が用意出来るはずだった。
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中野 伊勢武 (なかの いせたけ)
剣の腕は一流で、上洛の際にはその活躍を大いに期待されていた。 しかし船旅に弱く、船上では子供より手がかかったと言う。 討ち取られた時も苦手な船旅直後だったため、自慢の剣術は日の目を見なかったようだ。
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由利 孫三郎 (ゆり まごさぶろう)
隣家の楠元蔵と共に、幼い頃から北辰一刀流の道場に通う。 二十二の頃に長州藩脱藩志士 内田兵吾と知り合い意気投合。 楠と共に三人で義兄弟の契りを交わす。 攘夷活動のために上洛したものの、妹が楠に嫁いでいるため、本音では楠に土佐へ帰って欲しいと願っていた。
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坂本 龍馬 (さかもと りょうま)
親友の武市半平太が結成した土佐勤王党に参加したが、翌年脱藩。 当初は単純な攘夷論の持ち主だったが、幕府の軍艦奉公 勝海舟を暗殺に行った際、逆に諭され、外国に目を向けるようになる。 海舟の失脚後は薩摩藩の援助を受け、長崎に日本初の株式会社亀山社中を結成。海運業を営む。 その後は薩長同盟締結に奔走。 同盟成立後は脱藩の罪を許され、亀山社中を海援隊と改定して隊長となる。 大政奉還構想を記した「船中八策」の提唱など、多大な功績を残した。 幼い頃、龍馬は常から水泳で体を鍛えていた。 雨の日でも、近くの鏡川に泳ぎに出かける龍馬に、当時通っていた 道場の師匠が「雨が降っているのに泳ぐのか?」と問うた所、 龍馬は「川の中に入れば結局濡れるのですから」 と平然と答えた。常識をくつがえすこの発言に、師匠は感心したという。 正眼から打ち込まれる素早い打ち下し攻撃が入ると一気に多段攻撃に持ち込まれる。 こちらの攻撃に対しても隙が無く、多くの技を備えている。 懐に忍び込ませている銃も厄介である。 血を流さすに日本を革命しようと奔走した龍馬だったが、時勢がそれを許さなかった。 間近に迫った維新を見ることも無く、山寺で新撰組に討たれ、夢半ばにして倒れた。
六章 特殊任務-京市街地-[新] 八章 特殊任務-商屋- 八章 勅命任務-古寺- |
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岡田 以蔵 (おかだ いぞう)
剣術を武市半平太に師事し、その腕を高く評価され度々武市の共として諸国を回るようになる。 後に、江戸で土佐勤王党に加盟。 京都では天誅を重ね、その強さから「人斬り以蔵」と恐れられた。 この他、龍馬からの依頼で勝海舟の護衛をし、命を救ったこともある。 八月十八日の政変で尊攘派が没落したため、名を土井鉄蔵と変え、幕府の目を逃れる生活を送っていた。 勝海舟の護衛中、京都市中で刺客に襲われたが、以蔵は逆に斬り伏せてしまった。 勝は人斬りを咎めたが、 「私がいなかったら、先生の首はすでに飛んでいたでしょう」 と以蔵に答えられ、何も言えなかったという。 同じ構えから二種類の攻撃を使い分ける変則的な剣術で、 攻撃の見極めを難しくしている。 京市街地で新撰組に捕縛された後、土佐へと連行される。 勤皇党のことを知りたがっていた藩の人間により拷問を受け、内部の情報を全てしゃべらされた後、斬首された。 これによって勤皇党は壊滅した。 刑の際には、以下のような句を詠んだ。 「君が為 尽くす心は水の泡 消えにし 後は 澄み渡る空」
四章 特殊任務-京市街地-[新・沖] |
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野辺 五十五郎 (のべ いそごろう)
幼少から武術に優れ、十五の時に北辰一刀流の免許皆伝を受けたほどの剣豪。文久元年に土佐勤王党が結成されると、その末席に加わった。 上洛後は、岡田以蔵らと共に数多くの天誅を実行。 しかし、次第に人を斬る事に疑問を抱き始め、第一線から身を引くようになる。 最近は必要時以外に剣を抜くことは無くなり、自分が斬ったことによって孤児となった五つの子を養っていたという。
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土井垣 国広 (どいがき くにひろ)
幼くして両親を亡くし、親戚をたらい回しにされた結果、足軽土井垣家の養子となる。 養父が早くから尊攘思想を持っていたため強い影響を受け、土佐勤王党が結成されると同時にそれに参加。 すぐに京へ上洛し、仲間内の連絡役を負った。 幼い頃に別れた兄弟がおり、それが大庄屋の後継ぎになっているとの噂を耳にし、密かに探し続けていた。
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楠 元蔵 (くすのき もとぞう)
隣家の由利孫三郎と共に、幼い頃から北辰一刀流の道場に通う。 十五の頃に長州藩脱藩志士内田兵吾と知り合い、意気投合。 由利と共に三人で義兄弟の契りを交わす。 十九歳で由利の妹と結婚したが、三ヶ月もたたずに攘夷活動のために京へと向かった。
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蛯名 岩太郎 (えびな いわたろう)
十六で藩を脱藩し、京へ上洛。独自に攘夷活動を行う。 京で知り合った茶屋の娘と懇意にしており、近々子供が生まれることになったため、そろそろ攘夷活動から足を洗おうかと考えていた。
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大利 鼎吉 (おおり ていきち)
文久三年に脱藩し、翌年の蛤御門の変に参戦した。 脱走後は、田中光顕や那須盛馬らと倒幕運動に参加する。 しかし潜伏先を密告され、新撰組に踏み込まれた。
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小久保 誠之進 (こくぼ せいのしん)
坂本龍馬の生家近隣に住み、龍馬の活躍を聞いては憧れを募らせていた。 慶応元年、長崎で龍馬が「亀山社中」を結成したと聞くとすぐに脱藩。 その足で長崎に向かい、末席に加わった。 龍馬が江戸に行くと言えば自分も江戸に行き、京へ上洛をすると言えば先に行って情報収集をするというほどの、とにかく龍馬一筋人間。
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今野 又三郎 (こんの またさぶろう)
父は土佐藩の中堅家臣であり、藩政改革派「新おこぜ組」の一員でもあった。 文久二年、代表である吉田東洋の死により、組は瓦解。父も失脚し、蟄居処分となる。家自体は長男が存続した為、又三郎は脱藩。 かねてより熱望していた攘夷活動を行うべく、京へと上洛した。
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土門 数馬 (どもん かずま)
剣術を武市半平太に指示し、思想的にも大いに影響を受ける。 後に江戸に遊学し、砲術、兵術を、その後に長崎にも遊学し、蘭学を修めるなど、その才能は多岐に及んだ。 武市半平太の留守中は、土佐志士のまとめ役を買って出ていた。
六章 油小路夜警-参- |
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中岡 慎太郎 (なかおか しんたろう)
学問を間崎哲馬、剣術を武市半平太に師事し、江戸への遊学の最中には、高島塾で砲術も修めた。 その後、土佐勤王党に加盟する。 文久三年、勤王党への弾圧が始まると脱藩し、長州に身を寄せる。 蛤御門の変では、長州軍の一員として奮戦した。 以後薩長同盟のため東奔西走し、坂本龍馬と共に同盟締結に導く。 その他、公卿である三条実美と岩倉具視の和解や、薩土密約の幹旋等、多くの功績を残す。 土佐藩から脱藩罪を許された後、陸援隊長へ任じられた。 飢饉により、領内が食糧難に見舞われた時、わずか二十歳にも満たない中岡は、すぐに高知へ出府。非常用の貯蔵米を使用する許可を得るべく、役人宅を訪ねたが、夕刻であったために取り次いで貰えなかった。 そのため、中岡は門前に座り込んで一夜を明かし、翌朝必死に陳情をしたところ、その説得に心打たれた役人が貯蔵米の使用を許可し、民は救われたという。 下段からの鋭い突き攻撃には注意が必要。 並外れた耐久力が特徴である。 坂本龍馬と共に日本の改革を目指すも、暗殺者に狙われ、最期は近江屋で見廻組に討たれた。維新まで後わずか数週間であった。
八章 特殊任務-商屋- |
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藤崎 吉五郎 (ふじさき きちごろう)
尊皇攘夷活動に身を投じ、藩を脱藩する。 宮川と共に攘夷活動を行い、三条制札場に掲げられた幕府の高札を川に投げ捨てる等の行為を行っていたが、張り込んでいた新撰組に遭遇してしまう。 二つの構えから繰り出される攻撃は、どちらも二連続までの短いものだが、素早く威力は大きい。
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宮川 助五郎 (みやかわ すけごろう)
尊皇攘夷活動に身を投じ、脱藩する。 藤崎と共に攘夷活動を行い、三条制札場に掲げられた幕府の高札を川に投げ捨てる等の行為を行っていたが、張り込んでいた新撰組に遭遇してしまう。 下段の構えから繰り出す攻撃は、素早い連続切上攻撃から突き、回し斬りへと移行する華麗なものである。 しかし、見惚れると命取りになる威力も併せ持つ。
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八重樫 半三郎 (やえがし さんざぶろう)
幼少から神童と呼ばれるほど賢かったが、体が弱かったため、家に引きこもりがちな生活を送る。 そのまま庄屋の後を継ぐかと思われたが、土佐勤王党が結成されると突如としてそれに加盟。理由はかわらず、周囲を驚かせた。 その後、京へと上洛。仲間内では参謀的な役割を果たした。 実は養子であり、生き別れた兄がいたらしい。
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