不逞浪士討伐帳 その他
赤羽 友山 (あかばね ゆうざん)
脱藩して水戸へ遊学した際に国学を修め、尊皇攘夷論者となる。 文久元年に単独で上洛。京内で活動をしていた倒幕派志士達と親交を持ち、倒幕へ向け奔走した。 実は油虫(ゴキブリ)が死ぬほど苦手。 音だけでも敏感に反応し、姿を見れば気絶する。
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大橋 小左衛門 (おおはし こざえもん)
端正な顔立ちと調子の良い口上で、遊郭街で人気者となる。 ただし、調子がいい八方美人的な性格が災いし、女のいざこざが絶えなかった。 遊郭街では、三日に一度は遊女に追いかけられて逃げる姿が見られたとか。 「誠の旗より女が怖い」との名言?を残した。
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遊津 直介 (ゆうつ なおすけ)
文久二年の頃にふらりと京に現れ、気が向いた時に尊攘派に手を貸していた。 剣の方は人並みであったが、明るく騒々しい性格と無類の酒飲みで、宴席では欠かせない人材らしく、此度の討伐成功により倒幕派の損失は大きいと言われている。
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新見 錦 (にいみ にしき)
清河八郎の浪士募集に応じ、芹沢鴨と共に上洛。 後に清河から離反し、壬生浪士組の設立に尽力した。 初めは近藤、芹沢と並び、局長に就任したが、後に副長に降格となる。 平山五郎、平間重助、野口健司らと水戸派を自称し芹沢鴨の片腕を務めた。 日頃の素行は悪く、町家において金品の強奪をしていたと言われる。 居続けをしていた遊郭に踏み込まれ、土方達と刀を交えるが、最期は借財の責任を取って、無理やり腹を斬らされた。
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芹沢 鴨 (せりざわ かも)
清河八郎発案の浪士隊に参加し、仲間と上洛した。 後に清河から離反して近藤勇達と共に新撰組を結成。 八月十八日の政変での芹沢、近藤の的確な指揮と迅速な行動が高く評価され、新撰組はその力を認められた。 だが、本来の豪胆な性格が災いし、新撰組の結成当時から隊士を率いて京の町で暴虐の限りを尽くしていた。 そのため市井の人々からの評判はすこぶる悪く、隊内の悩みの種となっていた。 ある日、屯所としていた家を提供してくれている八木家の幼女が亡くなったため、葬式の受付を芹沢鴨と近藤勇の二人で引き受けたが、時間が空くと、いたずら描きをしたりなどして過ごしたらしい。 見た目とは異なり、腕力にものを言わせた攻撃だけではなく「受け」の技を多く揃えているため、不用意な攻撃は禁物である。
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平山 五郎 (ひらやま ごろう)
神道無念流の同門ということから、芹沢鴨と交友を持つ。 清河八郎発案の浪士隊に参加し、仲間と上洛。 後に清河から離反して、近藤勇達と共に新撰組を結成するが、芹沢と共に暴虐を尽くし、市井の人々の印象を悪くしていた。 花火の暴発によるやけどで、左目がふさがっていたと言われている。 相手によっては狂った様に暴れ回り、手がつけられないと言われていた。
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鈴木 四郎 (すずき しろう)
元治二年に、武装して朝廷に味方すると宣言した佐々木六角の同志の一人。 佐々木は見廻組に捕縛されたが、鈴木達一部の同志は別行動を取り、京内に潜伏。 情報を得て出動してきた新撰組と乱闘になった。
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西条 幸次郎 (さいじょう こうじろう)
新撰組隊士 岩崎三郎を騙って大文字屋源蔵宅へ借金を申し込むも、偽者と判明し、新撰組と乱闘になった。
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錦織 有無之助 (にしごり うむのすけ)
戦いになると無駄に力が入り過ぎ、必ず刀を折ってしまう。 その場に落ちている刀を拾って戦い続けるため、行きと帰りでは持ってる刀が違うこともしばしば。いつか名刀に変わらんものかと思っていた。
三章 蛤御門前巡察 |
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古高 俊太郎 (ふるたか しゅんたろう)
元は輪王寺宮の家臣を勤めていたが、文久二年に薪炭商桝屋の後を継ぎ、桝屋喜右衛門と名乗った。 翌三年に長州藩士 寺島忠三郎と出会ったことから尊攘派に急接近。 宮部鼎蔵等の倒幕派の面々を匿い、次第に倒幕派浪士の隠れ家としての役割を負うようになる。 後に新撰組に捕縛された古高は、決して口を割ろうとしなかったが、度重なる拷問に遂に屈服。 倒幕派が企てていた挙兵計画を自白した。
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水無月 右近 (みなづき うこん)
名も偽名と思われる。ただ剣の腕は確かで、噂では一時道場主であったとも言われている。 現在は目が不自由であり、薄っすらとしか物を把握できないが、剣の腕に翳りは無い。 島原に馴染みの遊女がおり、近々身請けする予定だった。
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堀田 鶴進斎 (ほった かくしんさい)
幼い頃から力が強く性格も粗暴であり、十五の時に決闘と称して、下級藩士の師弟を斬り殺してしまう。 そのために勘当され、家を飛び出したのだが、どうせならと京に上洛してきた。 剣の腕次第で生き死にが決まる京の世情が性に合っているらしく、混乱を楽しんでいた。
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淵上 郁太郎 (ふちがみ いくたろう)
肥後国 鳩野宗包に外科術を学び、天草で開業。 後に江戸に出て大橋訥庵に学び、帰国して藩校明善堂の教官となった。 文久二年に脱藩して長州へ赴くが、藩吏に捕らえられ幽閉される。 放免された後は池田屋事変や蛤御門の変に参加した。
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安藤 鉄馬 (あんどう てつま)
尊皇攘夷を目指し、上洛後は高木、有吉らと行動を共にする。 池田屋の会合にも出席していたが、新撰組の襲撃を潜り抜けて、長州藩邸へ逃れていた。
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大高 又次郎 (おおたか またじろう)
武芸、西洋砲術、革具足製作に精通していた。 姫路から上洛後は長州藩邸内に留まり、吉田稔麿、宮部鼎蔵らと交流を持つ。 古高俊太郎の営む桝屋の別棟に家族と住み、同志の武具・武器の調達にあたっていた。 古高捕縛時は、宮部鼎蔵と共に木屋町の丹虎にいたため、難を逃れた。
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福岡 裕次郎 (ふくおか ゆうじろう)
しかし、宮部鼎蔵といった倒幕派の大物と行動を共にしていたことから、その重要性が察せられる。 偽名を使っていたことも考えられ、判然とはしないが、勤皇運動家として一級と思われる。
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大高 忠兵衛 (おおたか ちゅうべえ)
天保八年に、藩士 大高六八郎の養子となり、甲冑製造業を学ぶ。 嘉永元年に上洛。三条通東洞院の同宅に住み、尊皇攘夷運動に加わる。 その後、知識を生かして武具商「大鷹屋」を営み、池田屋の会合前には同志十一人分の甲冑、小具足を調達した。 新撰組が池田屋を襲撃した際は、脱出して自宅に潜み、難を逃れていた。
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柴田 彦三郎 (しばた ひこさぶろう)
元治元年十月に、江戸での隊士募集に応じて上洛。 十二月の編成では、五番隊に配属された。 慶応二年に、一橋家臣某氏と市中で金策を行って脱走を図った。
六章 油小路夜警-弐- |
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木戸 武九郎 (きど たけくろう)
倒幕か佐幕か、いつまでも態度のはっきりしない藩政に失望し、脱藩して全国を遊行する。 同藩出身の思想家 平野国臣に多大な影響を受けており、投獄された平野を助けようとする長州藩志士 丹羽金吾を、影ながら援助していた。
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谷 三十郎 (たに さんじゅうろう)
宝蔵院流の槍の達人。 文久三年、弟の万太郎、周平と兄弟三人揃って新撰組入隊し、七番隊組長、槍術師範を勤めた。池田屋騒動では土方隊に属して屋内に斬り込み、褒賞金十七両を受ける。 末弟の周平が近藤の養子に迎え入れられており、そのことで天狗になっていた。 宝蔵院流を極めた谷の槍攻撃は、間合いが広い上に速い。 槍用の技をもってしても中々倒しにくい相手である。
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仲井戸 松助 (なかいど まつすけ)
以前から父と折り合いが悪く、弟に家を任せて十九歳で脱藩。京へ上洛する。 旅の道中で同じ久留米出身の溝口弥太郎と知り合い、意気投合。 猪突猛進型で後のことを考えない溝口を放っておくことが出来ず、上洛後もしばしば世話を焼いていた。
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溝口 弥太郎 (みぞぐち やたろう)
幕府の政策に我慢出来ず、尊皇攘夷を実戦すると言い残して家を飛び出してしまう。 旅の道中で同じ久留米出身の仲井戸松助と知り合い、意気投合。 上洛後もしばしば行動を共にする。 礼儀正しい仲井戸が自分の生活態度にまで口を出してくることに文句を言いながらも、内心では面倒を見てもらって感謝していた。
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久米部 六郎 (くめべ ろくろう)
各地を転々としていたらしく、言葉に数々の方言が混じっているため出身地の特定は困難。 いつもどこかを怪我しており、包帯が取れた姿を見たものはいない。 だが不思議と命だけは落とさずどんな死地からも生還していた。 運が良いのか悪いのかわからない。 仲間内でついたあだ名は「包帯六郎」
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田中 寅蔵 (たなか とらぞう)
平隊士でありながら撃剣師範を務める等、剣の腕は確かであり、また品行方正の壮士とも言われた。 強い勤王思想の持ち主で、在隊中に伊東甲子太郎と接触するが、分離には同行せず新撰組に残留する。 しかし翌月には新撰組を脱走。 御陵衛士への入隊を希望するが、近藤、伊東間で「互いに脱退者を受け入れず」という約定を結んでいたため、受け入れを拒否された。
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武田 観柳斎 (たけだ かんりゅうさい)
出雲母里の出身。藩の医生で甲州流軍学を修めた。 時代の流れにより古来の兵法が廃れ、洋式兵法が取り上げられるようになり、新撰組も幕府の命に従いフランス式兵法を採用。 甲州流軍学の武田は身の置き所がなくなり、隊を脱退する事を決意する。 当初、伊東甲子太郎の御陵衛士への合流を希望したが断られたために、敵方である薩摩と接触を図った。 武田が放つ上段からの攻撃は、皮肉にも、天然理心流の虎口剣である。 単純ながら力強いこの技は、無類の殺傷力を持つ。 薩摩との密通がばれ、宴席の帰りに寺境内で新撰組に暗殺された。
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長谷川 新之丞 (はせがわ しんのじょう)
慶応元年、阿波、徳島藩士よって編成された洋式鉄砲隊「銃士隊」に参加するが、洋式銃が性に合わず脱退。 剣の腕のみで生きたいと願い、動乱の中心であった京へ上洛する。 上洛後は他の尊攘派志士達と交流を持ち、自然と天誅に手を染めるようになった。
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佐藤 一作 (さとう いっさく)
藩校近隣の村に在住していたため、時折授業を覗いては独学で学を修める。 その知識は藩校の生徒をも軽く抜き去り、近隣に名を轟かせた。 噂を聞きつけた高田藩士 佐藤新作の目にとまり、養子として迎えられるも、その後は尊皇攘夷思想に深く傾倒し、脱藩してしまった。
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鶴 浪秀 (つる なみひで)
風流を解し、静かに詩をしたためるのを好んでいた文化人。 上洛してからは風鈴の音を好み、常に庭先につるしていた。 時代の流れに飲まれてしまったが、世が世なら詩人として名を馳せたかもしれない。
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森居 亀弥太 (もりい かめやた)
宝蔵院流槍術を良く使い、かなりの腕前を持つ。 俳句を得意とし、知り合った志士達には必ずと言って良いほど俳句の交換を強いる。 本人はさほど有名にはなれなかったが、交換した俳句には著名人が多いらしい。
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村山 四目之進 (むらやま よめのしん)
文久元年に京に現れ、攘夷活動に奔走する。 宮部鼎蔵といった倒幕派の大物御用達である桝屋に潜伏していたこともあるらしく、その正体は謎に包まれている。 一つわかっていることと言えば、甘いものが好物らしいということ。 その懐からは、切れることなく甘味物が出現するらしい。
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伊東 甲子太郎 (いとう かしたろう)
常陸志筑藩郷目付 鈴木専右衛門の長男。 父の蟄居に伴い、脱藩して水戸へ遊学した。 国学と神道無念流を修め、江戸に出た後は北辰一刀流を修行。 その腕を見込まれ、師匠 伊東精一の遺言と門弟達の推挙により、婿養子として道場を継ぐ。 後に同門の藤堂平助の誘いを承諾し、道場を畳んで新撰組に参加した。 しかし、次第に佐幕色を強める近藤達との間で思想的ずれを感じ、孝明天皇の御陵衛士として新撰組を離脱する。 元新撰組幹部という肩書きから倒幕派に疑われ、信任を得るべく近藤勇暗殺計画を立てるが、事前に察知されてしまった。 ある日、江戸に残してきた妻うめからの手紙に、伊東の実母が大病で伏せっていると記述があった。伊東はすぐに江戸に向かったが母は何とも無く、それは、国事に奔走する伊東を心配し、また一人残されたことを悲しんだうめが吐いた嘘だったということが判明した。 それを知った伊東は、国家の重きを知らないとうめを叱り、離縁状をつきつけて京に帰ってしまったという。 八相から繰り出される伊東の攻撃を受けたら最後、八連続の多段攻撃を次々と打ち込まれるので、注意が必要である。 新撰組の待ち伏せに会い、七条油小路にて新撰組の手によって命を落とす。 待望の維新まで、後わずか数週間であった。
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篠原 泰之進 (しのはら たいのしん)
尊攘活動に身を投じて東奔西走する内に、江戸で修行していた伊東甲子太郎と出会い、 行動を共にするようになる。 元治元年十月、伊東らと共に新撰組に加盟。諸士取扱役兼監察役並びに 桑術師範となる。 その後、伊東に従い隊を離脱。御陵衛士中心人物の一人となった。 下段からの突き攻撃を全て受けてしまうと、こちらが転倒してしまう。 もう一つの構えである八相の攻撃も、広範囲に影響を及ぼすため、乱戦時では危険な存在となる。 油小路の変では、伊東の亡骸を囮にされたことに憤慨し、新撰組と激闘を繰り広げた。<
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藤堂 平助 (とうどう へいすけ)
江戸生まれの御府内浪人。後に御陵衛士となる。 千葉道場で北辰一刀流を学んだ後、試衛館の近藤勇らと交友を深め、浪士組に加わり上洛。 元治元年に江戸へ下り、北辰一刀流同門の伊東甲子太郎を訪ね、新撰組へと勧誘した。 元より純粋な尊皇攘夷論者であったため、佐幕化していく新撰組に耐え切れず、伊東の誘いを受けて新撰組を離脱。 御陵衛士の中心人物の一人となる。 伊東暗殺の報を聞き、油小路へ駆けつけるが、そこで元の仲間である新撰組に奇襲される。 伊勢の津藩主藤堂和泉守のご落胤という噂もあり。 真偽の程は定かではないが、所持している刀は上総介兼重という、藤堂家の御抱鍛冶の作である。 闘いにおいては先陣を切って飛び込む事から「魁先生」の異名をとった。 御陵衛士との交戦中、元の仲間である藤堂を斬りたくないと願う永倉の機転で逃走を計るが、事情を知らない平隊士の手により斬殺された。
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