不逞浪士討伐帳 薩摩藩
隅本 壮助 | 橋口 四郎 | 浜垣 博之進 | 中村 半次郎 |
大久保 利通 | 穂刈 幸次郎 | 黒羽 吉保 | 荒木 勇七郎 |
西郷 隆盛 | 富川 捨助 |
隅本 壮助 (すみもと そうすけ)
橋口四郎と共に京の茶屋へ金策の強談に押し入るが、店主の通報により、捕縛に来た壬生浪士組と乱闘になった。
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橋口 四郎 (はしぐち しろう)
隈本壮助と共に、京の茶屋へ金策の強談に押し入るが、店主の通報により、捕縛に来た壬生浪士組と乱闘になった。
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浜垣 博之進 (はまがき ひろのしん)
十八歳で藩の記録所書役助として出仕するが、周囲との思想のずれを感じ、十九歳で脱藩。 単独で京へ向かった。 京でも単身で天誅を行い、その度胸を買われ、土佐系の志士と交友を持つようになった。
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中村 半次郎 (なかむら はんじろう)
その腕前は、雨戸から滴り落ちる雨水を、地面につくまでの間に抜き打ちで三度両断することができたと言う。 師と仰ぎ、心酔する西郷吉之助(隆盛)の護衛や密偵として活躍する。 蛤御門の変では、長州に忍び込んで内状探索を行っていた。 半次郎は好んで香水をつけていたという。 意外にお洒落な半次郎に、岡惚れする娼妓達は後を絶たなかったらしい。 正眼から発せられる、猛烈な突き攻撃を受けると一溜りも無い。 同じ正眼から、質の違う技も繰り出してくる厄介な相手である。 島原大門で斎藤一と刀を交えた。 鳥羽伏見の戦いを発端する戊辰戦争の最中、会津若松落城後の受け渡しの大任を果たした半次郎は、明治政府で陸軍少佐といった重役を歴任したが、西郷隆盛が政府を去ると自身もこれに従い、薩摩に帰国。 後の西南戦争で最期まで抵抗し、命を落とした。
七章 特殊任務-島原-[斎] |
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大久保 利通 (おおくぼ としみち)
十七歳で藩の記録所書役助として出仕。 藩主島津家の跡目相続争いに連座して免職となるが島津斉彬が藩主となったことで許され、復職。 その後、友人である西郷吉之助(隆盛)と結び、改革派の中心となった。 藩主斉彬の死により、その弟の久光が藩政を握ると直ちに接近。 藩政の中枢を握るようになる。 薩英戦争、蛤御門の変といった政局が激変する中、藩論を公武合体から倒幕へと転換させて薩長同盟を結び、維新の指導的役割をはたした。 ある時、藩主島津久光の逆鱗に触れ、切腹寸前となった西郷に、大久保は「おまんさぁだけを死なせはしもはん。一緒に刺し違えて死にもそ」と嘆き、逆に死を思い留まらせたという。 少ない手数ながら、的確に敵をしとめる堅実剛健な技を持つ。 上段からの打ち下し攻撃には注意が必要である。 洛外で新撰組と刃を交える。 維新後、明治政府の指導者となった大久保だったが 親友である西郷隆盛と政治論で確執を深め、決裂。 西郷は政府を去り、後に西南戦争を起こす。 大久保の最期は、不平士族による暗殺であった。
七章 特殊任務-洛外-[新・近] |
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穂刈 幸次郎 (ほかり こうじろう)
薩摩藩内部で倒幕活動を続けることに限界を感じ、過去の全てを断ち切った。 京では土佐藩出身の志士達と交流を持ち、特に土門数馬には色々と面倒を見てもらっていた。 本人は、自分を謎の男として演出したかったため、出身地などは隠していたが、扱う剣術は示現流で、酔えばお国言葉が出ることから、他には完全にばれていたようである。
七章 街道巡察-弐- |
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黒羽 吉保 (くろばね よしやす)
食うや食わずの貧農のため、八歳で商屋の奉公に出される。 しかし優秀な頭脳を持っていることに奉公先の主人が気付き、子供が居なかったため養子として迎え入れられた。 囲碁の勉強をするべく向かった寺で、大久保一蔵(利通)と出会い、それ以降資金援助などを含め影ながら暗躍するようになる。 時折京に上洛しては、情報収集に走り回っていた。
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荒木 勇七郎 (あらき ゆうしちろう)
幼くして剣術の腕に秀でていたため、近隣の下級藩士の家に養子として入り、道場に通うようになる。 その腕前は一太刀で丸太を寸断出来るほどの豪腕であり、仲間内からですら恐れられていた。 ある日、同門の浪士との話の中で 「首を斬り落とされたら自分の背中が見えるのだろうか。」 「いやそんな猶予はない」という論議が白熱した末、 相手を切り殺してしまい、その首に結論を尋ねたという。
七章 寺夜警-弐- |
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西郷 隆盛 (さいごう たかもり)
十八歳で郡方書役助として出仕。 藩主島津斉彬の庭方(秘書)に抜擢され、将軍継嗣問題に奔走した。 橋本左内や藤田東湖等の一流の人物と知り合い、思想的に影響を受ける。 斉彬の死後失脚して二度の島流しを経るが、友人である大久保一蔵(利通)の助けを得て藩政に復帰。 蛤御門の変や第一次長州征伐で活躍する。 慶応二年、坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で薩長同盟を結び、討幕の要となった。 中村半次郎が、西郷に教えを乞うべく私塾を訪れた時に、自分で作った芋を土産にと持参した。 貧乏だったため、他に用意出来なかったのである。 他の門下生は笑ったが。西郷はそれを嗜め 「半次郎は自分で作った芋をおいに捧げると言うちょる。 こい以上の贈はごわさん」と言って頭を下げて受け取った。 それを見た半次郎は、西郷への忠誠を誓ったという。 上段から繰り出される横払い攻撃は、その巨体に似合わぬほど速く激しい。 洛外で新撰組と刀を交える。 維新後、大久保と共に明治政府の中枢となった西郷だったが、政治論で大久保と確執を深め、決裂。 薩摩に帰国した後、私学校を設立して子弟の教育に努めたが、次第に肥大化する学校に脅威を感じた政府により圧迫を受け、生徒を中心とした人々による反乱が勃発。西南戦争へと突入してしまう。 最期は自ら一兵卒となって戦うも被弾し、弟子に介錯を頼み、自刃した。
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富川 捨助 (とみかわ すてすけ)
藩校造士館に通い、文学、兵学、剣槍、乗馬、砲術、柔術などを学ぶ。 他国へ遊学を願い出ると許可され、江戸で二年間を過ごした。 その際に出会った尊王派志士達に深い感銘を受け、帰国後は地元で攘夷活動に専念する。 だが周囲から受け入れられず、後に脱藩。 名を変えて京へ上洛した。
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