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[ 風雲幕末伝 攻略 ]

人物名鑑 【あ】

人物名鑑 【あ】

[あ] 赤根 武人 (あかね たけと) 医者の息子として生まれる。松下村塾の門下生。
その後梅田雲浜にも師事した。奇兵隊設立に協力し総督も経験する。

高杉晋作が功山寺で挙兵をした際、それに反対し長州を去った。その後、新撰組の近藤勇と共に帰藩するが幕府に内応したとの疑いをかけられ、斬首される。28歳だった。

雲浜が安政の大獄で捕らえられた際、諸国の志士から寄せられた書簡などを焼き、証拠隠滅をはかるなど、真面目で機転が利く人物だった。

浅利 義明 (あさり よしあき) 文政五年(1822年)、中西派一刀流・四代目中西子正の子として生まれ、後に千葉周作の師匠であった浅利義信の養子となった。実父と養父に剣を学び、奥義を究めて「入神の剣技」と謳われた。

維新後は駿府藩や有栖川家の剣術指南を行うなどして過ごし、明治27年(1894年)没した。
享年73歳。弟子に山岡鉄舟などがいる。
阿部 十郎 (あべ じゅうろう) 出羽出身。文久3年(1863年)、新撰組に入隊するが、池田屋事変直前に脱退。ぜんざい屋事件での活躍をきっかけに復隊した。その後、伍長や砲術師範を務めるが、伊東甲子太郎と共に御陵衛士として再び新撰組を去る。京を離れていたため、油小路の変には遭遇しなかった。

その後、近藤勇や沖田総司を襲撃するが、いずれも失敗に終わる。鳥羽伏見の戦い以降、薩摩軍に加わったり、赤報隊を結成するなど、各地を転戦。

維新後、北海道に渡ってリンゴ園等を経営し平穏な人生を送った。71歳で病没。
有馬 新七 (ありま しんしち) 薩摩藩の外城士出身。早くから尊攘思想に目覚め幕府大老・井伊直弼暗殺を計画するが、実行には至らなかった。その後、精忠組に加わり、文久2年(1862年)島津久光と共に上洛。

真木和泉らと結んで、挙兵計画を立てる。それが久光の知るところとなり、鎮撫使によって中止を促されるが、交渉が決裂し、寺田屋事件へと発展した。

同志の橋口吉之丈に自らを刺させ、道島五郎兵衛を道連れに死亡。
有村 冶左衛門 (ありむら じざえもん) 桜田門外の変に参加した薩摩藩士。鹿児島城下高麗町に生まれ、野太刀示現流を学んだ。

安政5年(1858年)に脱藩を試みるものの発覚し幽閉されるが、その後密かに江戸へ出て水戸藩の尊攘派と交流を深める。

桜田門外の変の際は、井伊直弼を直接討ち取る働きを見せるも、自らも重傷を負い、自刃して果てた享年23歳。
粟屋 帯刀 (あわや たてわき) 長州藩家老。長州内戦の際、藩政府軍の副将として参加した。絵堂に陣を敷き、前軍の指揮を執る。
しかし、絵堂において、奇襲を受けて遁走。諸隊討伐は失敗に終わった。

奇兵隊は襲撃の際、粟屋に宣戦布告を記した書状を届けたという。
井伊 直弼 (いい なおすけ) 13代彦根藩主。文化12年(1815年)に11代藩主直中の十四男として生まれた。安政5年(1858年)に異例の出世で大老職就任すると、勅許を持たずに日米修好通商条約に調印し、尊攘派の反感を買った。さらに将軍継嗣問題では徳川慶福(家茂)を推薦し14代将軍に就けるなど、強引とも言える政治手腕を見せた人物であった。

水戸藩への密勅がきっかけとなった安政の大獄で志士への大弾圧を行い、幕府の権威を保とうとするが、安政5年(1860年)、江戸城桜田門外にて水戸・薩摩の浪士に襲撃され殺された。享年46歳。
幾松 (いくまつ) 小浜藩士の娘。一家離散を受け京の芸妓となる。桂小五郎の恋人として、桂の逃亡や潜伏を助けた。

池田屋事変後、新撰組の詮議を受けるが、けっして口を割らなかったという。維新後、木戸孝允と名を改めた桂と結婚。木戸松子と名乗り桂の死後、仏門に入る。明治19年(1886年)病死。享年44歳。
池 内蔵太 (いけ くらた) 藩用人の子。江戸に遊学し、帰国後、土佐勤王党に参加した。藩の佐幕体質に失望し、脱藩。
以後、長州の尊攘活動に加わって、禁門の変や下関戦争に参加。武市半平太の刑死後、亀山社中に加わり、多くの事業に携わった。

慶応2年(1866年)、長崎から鹿児島へ向かうワイルウェフ号に乗り込むが、遭難に際し死亡。26歳だった。

生家が近所だったということもあり、龍馬にかわいがられ、将来を期待されていた。
石塚 岩雄 (いしづか いわお) 文久3年(1863年)、大阪で壬生浪士組の隊士を騙り、商屋から押し借りを働いていたことが発覚し、壬生浪士組に捕縛され、その首を橋上に晒された。

それ以前にも植村長兵衛という浪士が壬生浪士を騙って斬殺されている。
市橋 鎌吉 (いちはし かまきち) 元の名を藤原義次。尾張あるいは江戸の出身と言われる。慶応元年(1865年)7月に京阪での隊士募集に応じて新撰組に入隊したが、翌慶応2年(1866年)10月に死亡。死因は不明とされている。他の隊士と共に、京の光縁寺に合葬された。
市村 鉄之助 (いちむら てつのすけ) 大垣藩の出身。兄・辰之助と共に入隊。土方歳三の従者として五稜郭まで同行した。土方の命により箱館を脱出。土方の義兄・佐藤彦五郎に遺影などを届ける。後に西郷軍として西南戦争に参加し、24歳の若さで戦死した。兄の辰之助は江戸で新撰組を脱走している。

土方歳三に目をかけられ、鉄之助も忠誠を尽くしそれに応えていた。佐藤家でも、手厚い待遇を受け2年の間、匿われていた。
伊東 甲子太郎 (いとう かしたろう) 志筑藩の出身。江戸・深川で北辰一刀流の道場主をしていたが、元治元年(1864年)、藤堂平助の引き合わせにより、近藤勇と会見。参謀として新撰組に加わる。

後に近藤らと意見が対立し、御陵衛士として篠原泰之進らを率いて分隊。近藤暗殺を合策するが、計画が漏洩し、新撰組に謀殺される。剣だけではなく和歌をたしなみ、学問にも長けた美男子であった。享年33歳。

本名は鈴木大蔵。道場主の娘と結婚し、跡を継いだ時、伊藤大蔵と改めた。さらに新撰組に入隊すると、その年の干支にちなんで甲子太郎と変名した。
御陵衛士分隊後は伊東摂津と名乗り、生涯3度にわたって名前を変えている。
伊藤 俊輔 (いとう しゅんすけ) 長州の農民出身。父親の養子入りをきっかけに下級士族の身分となる。松下村塾に入門し、吉田松陰から「将来は周旋家になるだろう」と評価された。
松陰の死後、高杉晋作と共に尊攘活動を行う。

文久2年(1862年)、イギリス公使館焼き討ちに参加。その後、井上聞多らと共に英国へ留学するが、下関戦争の報を受けて帰国する。高杉晋作が功山寺で兵を挙げると、藩政府軍との戦いに身を投じた。

維新後、伊藤博文と改名。岩倉使節団の一員として欧米を視察。初代総理大臣に就任する。明治42年(1909年)、韓国のハルピン駅で朝鮮独立運動家・安重根に暗殺された。享年69歳。

高杉晋作に心酔していた伊藤は、晋作の墓碑に
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
と記し、敬意を表した。
井上 源三郎 (いのうえ げんざぶろう) 武州多摩郡の出身。試衛館道場に入門し、免許皆伝を受ける。文久3年(1863年)、近藤勇らと共に浪士組として上洛。近藤と共に京に残り、壬生浪士組隊士となる。その後、新撰組の六番隊組長として池田屋事変や禁門の変などにも参加するが、慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いにおいて、戦死。享年40歳。

無口で温厚な性格であったが、頑固な一面もあった。また、剣術に熱中するあまり、本業の畑仕事をおろそかにする事もあったという。
井上 佐一郎 (いのうえ さいちろう) 土佐藩の下級武士出身。下士を監視する下横目という役職に就き、吉田東洋暗殺の容疑者を探っていた所を殺害される。東洋暗殺の首謀者・武市半平太が捕縛されることを恐れた岡田以蔵による犯行だった。殺害時、泥酔させられ、無防備な状態で絞殺されたという。
井上 聞多 (いのうえ もんた) 出身は地侍。17才の時に明倫館に入学する。江戸に行き、剣術の他、蘭学や西洋砲術等も学んだ。
26歳で藩主の小姓に抜擢。一方、高杉晋作ら尊攘派と共に御盾隊を結成し、イギリス公使館の焼き討ちに参加する。

その後、伊藤俊輔らと共にイギリスへ留学した。
下関戦争勃発後、急きょ帰国。連合国との講和を進めながら、藩内の保守派を押さえ込む。その直後、刺客に襲われ、重傷を負うが、奇跡的に回復した。
維新後は井上馨の名で知られ、財政界で活躍する。
81歳でこの世を去った。

豪胆で行動力あふれる人物だったが、金銭関係にだらしがなく、維新後、西郷隆盛から「三井の番頭さん」と揶揄された。
今井 信郎 (いまい のぶお) 江戸出身。幕臣の子として生まれる。慶応3年(1867年)、京都見廻組与頭勤方として上洛。
近江屋にて坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺に加わる。

鳥羽伏見の戦いの後、江戸に帰還し、衝報隊副隊長に就任した。会津、箱館と転戦するが、五稜郭で新政府軍に投降。維新後、農業に従事する。
78歳で他界。
入江 九一 (いりえ くいち) 長州藩の下級武士出身。高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿と並び「松下村塾の四天王」の1人に数えられる。松陰の死後、久坂玄瑞に付いて弟・野村靖と共に尊攘活動を展開。藩主を擁して京に上る伏見要駕策が発覚し、兄弟共々投獄される。その後、奇兵隊の結成にも力を尽くした。禁門の変に参加し、志半ばにして自害。享年28歳。

松陰の活動や、思想が過激さを増していくにつれ門人たちは彼のもとを離れていくが、入江兄弟だけは最後まで松陰に尽くしていたという。
上田 馬之助 (うえだ うまのすけ) 鏡心明智流・桃井春蔵の門人で、士学館の四天王の1人。居合術の達人として知られ、無骨ながらも実直な性格により、人望があった。江戸の料亭において泥酔した武士に絡まれ、2人同時に討ち果たしたことで評判になる。維新後は宮内省に勤務した。
大石 鍬次郎 (おおいし くわじろう) 小野派一刀流の使い手。一橋家家臣の子として生まれる。三条制札事件、油小路の変、天満屋事件などで活躍し、「人斬り鍬次郎」の異名で呼ばれた。
新撰組が江戸に撤退した後、流山で離隊した。明治3年(1870年)、元・御陵衛士の加納道三郎に仕官を頼みに行くも、新政府軍に捕らえられ、処刑された。享年33歳。

浪士組に入る前は、土方歳三の故郷である武州日野郷で大工をしており、歳三の義兄・佐藤彦五郎の道場で剣を習っていたという。
大久保 利通 (おおくぼ としみち) 薩摩藩の下級士族に生まれる。17歳の時、記録所に出仕。藩主継承問題で職を解かれるが、藩主となった斉彬に罪を許され復職した。

その後、西郷隆盛と並んで、改革派の中心人物となる。斉彬が没すると、藩主の父となった島津久光に接近して要職に就いた。

慶応2年(1866年)幕府から薩摩藩に第二次長州征伐の派兵を求められると、耳が聞こえないふりをして拒否。維新後は新政府の中心的存在として廃藩置県など国家改革に尽力したが、明治11年(1878年)西郷の信奉者によって暗殺される。
享年49歳。

斉彬死後、藩の実権を握ることになった久光の囲碁好きを知って、囲碁を習い始めた。そのため、周囲からは計算高い人物と見られたが、それ以前からたしなんでおり、普段は冷静な大久保からは想像もできないほど熱中したという話も残っている。
大沢 源次郎 (おおさわ げんじろう) 元治元年(1864年)、見廻組に配属され、慶応3年(1867年)に謀反を企て、新撰組に捕縛される。武州出身。

捕縛命令を受けた一橋家家臣・渋沢栄一が新撰組に協力を依頼した。捕縛後、江戸に護送され、処分を受ける。
大山 弥助 (おおやま やすけ) のちに大山巌として、新政府で政治家、軍人などを務める。西郷隆盛の従弟。隆盛の影響を受け、尊攘思想に目覚めた。島津久光上洛の機に乗じて、有馬新七らと挙兵計画を立てるが、寺田屋事件によって鎮圧される。鳥羽伏見の戦い以降、砲隊長として活躍した。
大利 鼎吉 (おおり ていきち) 土佐五十人組の1人で、土佐勤王党にも名を連ねていた。元治2年(1865年)、田中光顕らと共に大阪の焼き討ちを計画するが、大阪・岩倉屋において、新撰組の谷三十郎らに踏み込まれ、斬殺された。

後に、この騒動は「ぜんざい屋事件」として知られるようになる。
岡田 以蔵 (おかだ いぞう) 土佐藩出身。足軽の身分に生まれた為、独学で剣の腕を鍛えた。その剣の技量を武市半平太に見出され、尊攘志士の道を歩み始める。武市に随行して江戸の士学館で剣術を学んだ後、京に上り、武市の指示で暗殺任務に関わるようになった。井上佐一郎や本間精一郎などを暗殺、「人斬り以蔵」の異名を取る。

土佐藩の尊攘派弾圧によって武市が投獄されると「土井鉄蔵」と変名。逃亡を続けるが、京で捕縛される。激しい拷問を受けても決して口を割らなかったが、武市から自害を促す毒薬が届けられると、態度を一変させ、すべてを自白した。その結果、武市ら尊攘志士は処罰され、自らも斬首に処せられる。
28歳だった。

坂本龍馬とも交流があり、龍馬の依頼を受け、勝海舟の護衛を務めたこともある。その時、勝の命を狙って現れた刺客を一刀のもとに切り伏せた。相手の命を奪うことに何のためらいも見せない以蔵を勝がたしなめると、「もし、斬っていなければ、あなたが斬られていた」と言い返したという。
尾形 俊太郎 (おがた しゅんたろう) 文久3年(1863年)、新撰組に入隊。諸士取調役兼監察、五番隊組長、文学師範などを務めた。
元治元年(1864年)の江戸での隊士募集や、慶応元年(1865年)の長州出張に随行する。鳥羽伏見の戦いや江戸退却後の戦闘にも参加するが、会津で離隊。その後消息を絶つ。肥後出身。
沖田 総司 (おきた そうじ) 白河藩下級武士の子。幼くして父を亡くし、試衛館道場に預けられる。そこで生活の中で剣の才能に目覚め、10代で免許皆伝。

文久3年(1863年)、近藤勇らと共に浪士組に参加する。上洛後、壬生浪士組の幹部として活躍し、新撰組となった後も、一番隊組長として芹沢暗殺、池田屋事変など、その剣術を活かした働きを見せた。しかし、肺病を患い、鳥羽伏見の戦いを前に戦線を離脱する。他の隊士と共に江戸に戻り療養生活を送る事となる。

慶応4年(1868年)、27歳で他界。

子供好きで、いつも冗談ばかり言っているような明るい性格だったが、剣術では隊内でも有数の使い手で、三段突きを得意とした。
お龍 (おりょう) 本名・楢崎龍。医者の娘として生まれる。安政の大獄で父を失い、困窮の暮らしをしていた頃、坂本龍馬に出会った。その後、龍馬の口添えで寺田屋に預けられる。

慶応2年(1866年)、寺田屋で休んでいた龍馬に幕吏の侵入を告げ、その際、怪我をした龍馬の看病をしたことがきっかけで、2人は結婚。九州で日本初の新婚旅行を経験する。龍馬の死後、東京で再婚した。66歳で病死。

誰もが認めるほどの美人だったと言われるが、寺田屋騒動の時、入浴中だったため、全裸で龍馬に危急を知らせに行く等、性格は男勝りだったという。

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