人物名鑑 【あ】
赤根 武人 (あかね たけと)
その後梅田雲浜にも師事した。奇兵隊設立に協力し総督も経験する。 高杉晋作が功山寺で挙兵をした際、それに反対し長州を去った。その後、新撰組の近藤勇と共に帰藩するが幕府に内応したとの疑いをかけられ、斬首される。28歳だった。 雲浜が安政の大獄で捕らえられた際、諸国の志士から寄せられた書簡などを焼き、証拠隠滅をはかるなど、真面目で機転が利く人物だった。 |
||||
浅利 義明 (あさり よしあき)
維新後は駿府藩や有栖川家の剣術指南を行うなどして過ごし、明治27年(1894年)没した。 享年73歳。弟子に山岡鉄舟などがいる。 |
||||
阿部 十郎 (あべ じゅうろう)
その後、近藤勇や沖田総司を襲撃するが、いずれも失敗に終わる。鳥羽伏見の戦い以降、薩摩軍に加わったり、赤報隊を結成するなど、各地を転戦。 維新後、北海道に渡ってリンゴ園等を経営し平穏な人生を送った。71歳で病没。 |
||||
有馬 新七 (ありま しんしち)
真木和泉らと結んで、挙兵計画を立てる。それが久光の知るところとなり、鎮撫使によって中止を促されるが、交渉が決裂し、寺田屋事件へと発展した。 同志の橋口吉之丈に自らを刺させ、道島五郎兵衛を道連れに死亡。 |
||||
有村 冶左衛門 (ありむら じざえもん)
安政5年(1858年)に脱藩を試みるものの発覚し幽閉されるが、その後密かに江戸へ出て水戸藩の尊攘派と交流を深める。 桜田門外の変の際は、井伊直弼を直接討ち取る働きを見せるも、自らも重傷を負い、自刃して果てた享年23歳。 |
||||
粟屋 帯刀 (あわや たてわき)
しかし、絵堂において、奇襲を受けて遁走。諸隊討伐は失敗に終わった。 奇兵隊は襲撃の際、粟屋に宣戦布告を記した書状を届けたという。 |
||||
井伊 直弼 (いい なおすけ)
水戸藩への密勅がきっかけとなった安政の大獄で志士への大弾圧を行い、幕府の権威を保とうとするが、安政5年(1860年)、江戸城桜田門外にて水戸・薩摩の浪士に襲撃され殺された。享年46歳。 |
||||
幾松 (いくまつ)
池田屋事変後、新撰組の詮議を受けるが、けっして口を割らなかったという。維新後、木戸孝允と名を改めた桂と結婚。木戸松子と名乗り桂の死後、仏門に入る。明治19年(1886年)病死。享年44歳。 |
||||
池 内蔵太 (いけ くらた)
以後、長州の尊攘活動に加わって、禁門の変や下関戦争に参加。武市半平太の刑死後、亀山社中に加わり、多くの事業に携わった。 慶応2年(1866年)、長崎から鹿児島へ向かうワイルウェフ号に乗り込むが、遭難に際し死亡。26歳だった。 生家が近所だったということもあり、龍馬にかわいがられ、将来を期待されていた。 |
||||
石塚 岩雄 (いしづか いわお)
それ以前にも植村長兵衛という浪士が壬生浪士を騙って斬殺されている。 |
||||
市橋 鎌吉 (いちはし かまきち)
|
||||
市村 鉄之助 (いちむら てつのすけ)
土方歳三に目をかけられ、鉄之助も忠誠を尽くしそれに応えていた。佐藤家でも、手厚い待遇を受け2年の間、匿われていた。 |
||||
伊東 甲子太郎 (いとう かしたろう)
後に近藤らと意見が対立し、御陵衛士として篠原泰之進らを率いて分隊。近藤暗殺を合策するが、計画が漏洩し、新撰組に謀殺される。剣だけではなく和歌をたしなみ、学問にも長けた美男子であった。享年33歳。 本名は鈴木大蔵。道場主の娘と結婚し、跡を継いだ時、伊藤大蔵と改めた。さらに新撰組に入隊すると、その年の干支にちなんで甲子太郎と変名した。 御陵衛士分隊後は伊東摂津と名乗り、生涯3度にわたって名前を変えている。 |
||||
伊藤 俊輔 (いとう しゅんすけ)
松陰の死後、高杉晋作と共に尊攘活動を行う。 文久2年(1862年)、イギリス公使館焼き討ちに参加。その後、井上聞多らと共に英国へ留学するが、下関戦争の報を受けて帰国する。高杉晋作が功山寺で兵を挙げると、藩政府軍との戦いに身を投じた。 維新後、伊藤博文と改名。岩倉使節団の一員として欧米を視察。初代総理大臣に就任する。明治42年(1909年)、韓国のハルピン駅で朝鮮独立運動家・安重根に暗殺された。享年69歳。 高杉晋作に心酔していた伊藤は、晋作の墓碑に 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」 と記し、敬意を表した。 |
||||
井上 源三郎 (いのうえ げんざぶろう)
無口で温厚な性格であったが、頑固な一面もあった。また、剣術に熱中するあまり、本業の畑仕事をおろそかにする事もあったという。 |
||||
井上 佐一郎 (いのうえ さいちろう)
|
||||
井上 聞多 (いのうえ もんた)
26歳で藩主の小姓に抜擢。一方、高杉晋作ら尊攘派と共に御盾隊を結成し、イギリス公使館の焼き討ちに参加する。 その後、伊藤俊輔らと共にイギリスへ留学した。 下関戦争勃発後、急きょ帰国。連合国との講和を進めながら、藩内の保守派を押さえ込む。その直後、刺客に襲われ、重傷を負うが、奇跡的に回復した。 維新後は井上馨の名で知られ、財政界で活躍する。 81歳でこの世を去った。 豪胆で行動力あふれる人物だったが、金銭関係にだらしがなく、維新後、西郷隆盛から「三井の番頭さん」と揶揄された。 |
||||
今井 信郎 (いまい のぶお)
近江屋にて坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺に加わる。 鳥羽伏見の戦いの後、江戸に帰還し、衝報隊副隊長に就任した。会津、箱館と転戦するが、五稜郭で新政府軍に投降。維新後、農業に従事する。 78歳で他界。 |
||||
入江 九一 (いりえ くいち)
松陰の活動や、思想が過激さを増していくにつれ門人たちは彼のもとを離れていくが、入江兄弟だけは最後まで松陰に尽くしていたという。 |
||||
上田 馬之助 (うえだ うまのすけ)
|
||||
大石 鍬次郎 (おおいし くわじろう)
新撰組が江戸に撤退した後、流山で離隊した。明治3年(1870年)、元・御陵衛士の加納道三郎に仕官を頼みに行くも、新政府軍に捕らえられ、処刑された。享年33歳。 浪士組に入る前は、土方歳三の故郷である武州日野郷で大工をしており、歳三の義兄・佐藤彦五郎の道場で剣を習っていたという。 |
||||
大久保 利通 (おおくぼ としみち)
その後、西郷隆盛と並んで、改革派の中心人物となる。斉彬が没すると、藩主の父となった島津久光に接近して要職に就いた。 慶応2年(1866年)幕府から薩摩藩に第二次長州征伐の派兵を求められると、耳が聞こえないふりをして拒否。維新後は新政府の中心的存在として廃藩置県など国家改革に尽力したが、明治11年(1878年)西郷の信奉者によって暗殺される。 享年49歳。 斉彬死後、藩の実権を握ることになった久光の囲碁好きを知って、囲碁を習い始めた。そのため、周囲からは計算高い人物と見られたが、それ以前からたしなんでおり、普段は冷静な大久保からは想像もできないほど熱中したという話も残っている。 |
||||
大沢 源次郎 (おおさわ げんじろう)
捕縛命令を受けた一橋家家臣・渋沢栄一が新撰組に協力を依頼した。捕縛後、江戸に護送され、処分を受ける。 |
||||
大山 弥助 (おおやま やすけ)
|
||||
大利 鼎吉 (おおり ていきち)
後に、この騒動は「ぜんざい屋事件」として知られるようになる。 |
||||
岡田 以蔵 (おかだ いぞう)
土佐藩の尊攘派弾圧によって武市が投獄されると「土井鉄蔵」と変名。逃亡を続けるが、京で捕縛される。激しい拷問を受けても決して口を割らなかったが、武市から自害を促す毒薬が届けられると、態度を一変させ、すべてを自白した。その結果、武市ら尊攘志士は処罰され、自らも斬首に処せられる。 28歳だった。 坂本龍馬とも交流があり、龍馬の依頼を受け、勝海舟の護衛を務めたこともある。その時、勝の命を狙って現れた刺客を一刀のもとに切り伏せた。相手の命を奪うことに何のためらいも見せない以蔵を勝がたしなめると、「もし、斬っていなければ、あなたが斬られていた」と言い返したという。 |
||||
尾形 俊太郎 (おがた しゅんたろう)
元治元年(1864年)の江戸での隊士募集や、慶応元年(1865年)の長州出張に随行する。鳥羽伏見の戦いや江戸退却後の戦闘にも参加するが、会津で離隊。その後消息を絶つ。肥後出身。 |
||||
沖田 総司 (おきた そうじ)
文久3年(1863年)、近藤勇らと共に浪士組に参加する。上洛後、壬生浪士組の幹部として活躍し、新撰組となった後も、一番隊組長として芹沢暗殺、池田屋事変など、その剣術を活かした働きを見せた。しかし、肺病を患い、鳥羽伏見の戦いを前に戦線を離脱する。他の隊士と共に江戸に戻り療養生活を送る事となる。 慶応4年(1868年)、27歳で他界。 子供好きで、いつも冗談ばかり言っているような明るい性格だったが、剣術では隊内でも有数の使い手で、三段突きを得意とした。 |
||||
お龍 (おりょう)
慶応2年(1866年)、寺田屋で休んでいた龍馬に幕吏の侵入を告げ、その際、怪我をした龍馬の看病をしたことがきっかけで、2人は結婚。九州で日本初の新婚旅行を経験する。龍馬の死後、東京で再婚した。66歳で病死。 誰もが認めるほどの美人だったと言われるが、寺田屋騒動の時、入浴中だったため、全裸で龍馬に危急を知らせに行く等、性格は男勝りだったという。 |