人物名鑑 【た】
高杉 晋作 (たかすぎ しんさく)
万延元年(1860年)、軍艦教授所で航海術を学ぶが挫折。その後、幕府の使節団に加わり、列強諸国に蹂躙された清国の現実に衝撃を受ける。帰国後、イギリス公使館を焼き討ちするなど過激な尊攘活動を行いながら、突如、10年の暇を願い出て出家してしまう。 文久3年(1863年)、長州藩が単独で攘夷を決行し、諸外国との戦争に突入すると、武士だけでなく町民や農民まで加えた奇兵隊を結成して参戦。 しかし、教法寺事件によって総督を解任された。 翌年、脱藩の罪で投獄されるが、下関戦争の講和大使に任ぜられ釈放。「宍戸刑馬」を名乗り、機転を利かせた交渉で連合国側を出鼻を挫く。その後、武力蜂起して藩の保守勢力から政権を奪取した。 第二次長州征伐では海軍総督として活躍するが。慶応3年(1867年)、肺病の為27歳で他界。 第一次長州征伐後、俗論党の台頭に長州を追われた晋作は、福岡藩内に住む野村望東尼のもとに匿われる。後に望東尼が姫島に流された際、晋作は彼女の救出に向かってその恩に報いた。晋作の辞世の句 「おもしろきこともなき世をおもしろく」に 「住みなすものは心なりけり」 と下の句を続けたのが、この望東尼である。望東尼は晋作の心情のよき理解者であった。 |
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武田 観柳斎 (たけだ かんりゅうさい)
その後、薩摩藩に接近したため、新撰組に討伐される。 隊内でも屈指の美男子と言われていた馬越三郎に好意を寄せているという噂が立ち、馬越は迷惑したという話も残っている。その為、男色家という印象もあるが、真実は定かではない。 |
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武市 半平太 (たけち はんぺいた)
文久元年(1861年)、坂本龍馬などを誘って土佐勤王党を結成。藩政を握っていた吉田東洋を暗殺し、藩論を尊王攘夷に転向させた。その後、上洛し、尊攘活動の指揮者として活躍するが、文久3年(1863年)、藩内で再び勢力を盛り返してきた佐幕派によって投獄される。 慶応元年(1865年)、切腹に処せられ36歳の生涯を終えた。 その風貌から、坂本龍馬に土佐弁で「あご」を意味する「アギ」という愛称で呼ばれていた。 しかし、人命を軽んじる独善的な考えから、龍馬は武市のもとを去る。 |
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田中 新兵衛 (たなか しんべえ)
国父・島津久光の上洛に随行を許されず、自費で京に上る。そこで武市半平太に出会い、武市と義兄弟の契りを結んで、土佐勤王党と行動を共にした。 文久3年(1863年)、姉小路公知暗殺の嫌疑をかけられ捕縛。取調べ中に自決して果てた。享年23歳。 現場に新兵衛の刀が落ちていたため、姉小路の殺害を疑われたが、えん罪だったという説もある。しかし、自分の刀を見せられた新兵衛は、その刀で腹部と喉を刺し、自害した。 |
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谷 三十郎 (たに さんじゅうろう)
慶応2年(1866年)、祇園石段下で死亡。病死とされているが、斬殺説もある。弟・周平は近藤勇の養子となるが、のちに解消され、離隊した。 槍の腕前を「千石もの」と評されることもあるが道場槍でしかなかったとも言われている。弟・万太郎と混同されているという見方も強い。 |
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千葉 佐那子 (ちば さなこ)
しかし、龍馬は国事に奔走しているうちに別の女性お龍と結婚してしまう。女学校の舎監などを務めながら、明治29年(1896年)、59歳の生涯を終えた。 龍馬が死んでもその想いは強く残り、婚約の印として龍馬から受け取った紋付の袖を大事に保管し、生涯独身で通したという。 |
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千葉 重太郎 (ちば じゅうたろう)
千葉一門という厳格な家系に生まれながら、勝海舟の暗殺を龍馬に持ちかけるなど、江戸っ子らしい気質も持っていた。 |
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塚田 孔平 (つかだ こうへい)
後年、自ら道場を構えて指南を行い、門人であった松代藩主に招かれ仕官。明治2年(1869年)に没した。 |
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露草 (つゆくさ)
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寺島 忠三郎 (てらじま ちゅうざぶろう)
元治元年(1864年)、禁門の変に参加。敗走の末、久坂玄瑞と互いに刺したがえて自害した。享年21歳。 情に厚く、安政の大獄により江戸に護送される松陰と和歌を交わし、涙ながらに見送ったという。 |
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藤吉 (とうきち)
慶応3年(1867年)、坂本龍馬暗殺のため近江屋を訪れた佐々木只三郎らに斬られ、絶命する。 力士時代は雲井龍を名乗っていた。 |
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藤堂 平助 (とうどう へいすけ)
その後、京に残留し、壬生浪士組が新撰組と名を改めてからも八番隊組長を務め、近藤の傍を離れることはなかった。近藤が江戸で隊士募集を行った際、同門の伊東甲子太郎を紹介する。 伊東入隊後は近藤派から距離を置き、伊東と共に御陵衛士として分隊した。油小路の変で新撰組に討たれ死亡。24歳だった。 斬り合いでは常に先頭を切って飛び込んでいく姿から、「魁先生」の異名を取っていた。 |
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殿内 義雄 (とのうち よしお)
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