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[ 風雲幕末伝 攻略 ]

人物名鑑 【は】

人物名鑑 【は】

[は] 林 信太郎 (はやし しんたろう) 文久3年(1863年)、新撰組に入隊。池田屋事変、鳥羽伏見の戦いなどに参加する。新撰組の江戸退却後、甲陽鎮撫隊にも加わるが、永倉新八らと共に離隊。靖共隊として会津方面に転戦した。慶応4年(1868年)、水戸街道で戦死。
速見 又四郎 (はやみ またしろう) 文久3年(1863年)、講武所剣術教授の同僚佐々木只三郎と共に、江戸へ戻る浪士組の浪士出役に任命される。

江戸帰還後、老中・板倉伊賀守から清河八郎暗殺の命を受け、麻布一の橋において、佐々木らと清河を殺害した。のち京都見廻組に加わる。
原田 左之助 (はらだ さのすけ) 松山藩の下級武士出身。江戸で近藤勇と知り合い共に浪士組に加わって、上洛する。壬生浪士組隊士となり、新撰組になってからも十番隊組長を務め、池田屋事変、禁門の変などで活躍した。三条大橋の制札を引き抜いた犯人を討伐した話は有名である。

また、坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられた事もあった。京で町娘のマサと結婚。妻子を残したまま江戸に行く。近藤たちと離別した後、永倉新八と共に新政府軍と戦ったが、最期は彰義隊に加わって上野で戦死。享年29歳。

伊予にいた頃、相手の言葉にカッとなって腹部を切り、その傷痕を自慢していたという。その勇ましい性格から、満州に渡って馬賊となったという伝説まで残っている。
土方 歳三 (ひじかた としぞう) 武州の農民出身。商屋へ奉公に出たものの、問題を起こし実家に戻る。家伝の「石田散薬」を売り歩きながら剣術修行に励み、文久3年(1863年)に試衛館道場の近藤勇と共に浪士組に参加した。浪士組を尊王攘夷の先鋒にしようとする清河八郎に反発し、近藤一派と芹沢一派は京に残留。京都守護職である会津藩主・松平容保の下、壬生浪士組として不逞浪士弾圧を行う。

八月十八日の政変での活躍を認められ、新撰組と改名した。その後、芹沢派を粛清し、局長の近藤を補佐しながら、「鬼の副長」として新撰組を統制した。鳥羽伏見の戦いでは、負傷して参戦できない近藤に代わって指揮を執った。江戸に戻ると甲陽鎮撫隊に参加。流山で近藤と別れたのちも、北へ転戦を続ける。

明治2年(1869年)、箱館・五稜郭において徹底抗戦の末、戦死。35歳だった。

新撰組隊内ではその厳しさから「鬼の副長」とも言われていたが、その一方で、俳句をたしなんだり自分に寄せられた恋文を故郷に送って見せびらかすなど、人間味あふれる一面も持っていた。
平山 五郎 (ひらやま ごろう) 姫路藩出身。芹沢鴨と行動を共にしていた隻眼の剣士として知られる。文久3年(1863年)の浪士組結成に参加。上洛後、芹沢に従って京に残留した。壬生浪士組の副長助勤となり、新撰組に改名後もその職を受け継ぐ。

屯所で眠っているところを近藤一派に襲撃をされ芹沢鴨と共に斬殺された。享年35歳。

火薬の爆発によって左眼を失明していたが、不思議なことに左からの打ち込みには強く、反対に右からの攻撃に弱かったという。
広岡 千子治朗 (ひろおか ねのじろう) 桜田門外の変に参加した水戸浪士の1人。水戸藩士の子として生まれる。安政6年(1859年)、藩主・斉昭に下った攘夷の密勅を返納しようとした保守派藩士の動きを察知し、それを阻止した。井伊直弼暗殺の際、重要を負い自刃して果てる。
福田 侠平 (ふくだ きょうへい) 奇兵隊の幹部として、第二次長州征伐の防衛や鳥羽伏見の戦いで活躍する。長州内戦において、深夜進軍しようとした高杉晋作を制止したり、隊内で刃傷沙汰を起こした三浦梧楼の自刃を阻止するなど、隊内での功績も大きい。

明治元年(1868年)長州に凱旋帰国した直後に死亡。戦いの中で死んでいった仲間たちを想って酒をあびるほど飲んだのが原因だった。
享年39歳。

禁門の変で長州に敗走してきた時山直八を温かく迎えた人情家。それがきっかけで、時山は奇兵隊に加わったという。
福原 越後 (ふくはら えちご) 徳山藩主の六男として生まれる。福原家の家督を継いで、家老職に就いた。同じく家老の国司信濃、益田弾正と共に兵を率いて禁門の変に参加。敗退し帰国する。第一次長州征伐が始まり、幕府に恭順の態度を見せるため、国司、益田同様、切腹させられた。
仏生寺 弥助 (ぶっしょうじ やすけ) 越中の農民出身。江戸へ出て、同郷の斎藤弥九郎に師事した。斎藤が開いた神道無念流の錬兵館で下働きをしているうちに見出され、剣術の才能を発揮する。のちに長州に仕えるが、武具購入のために借りた金を使い込んだため、藩が返済。それが原因で暗殺される。

無学なため、なかなか仕官できなかったが、剣術の腕においては一流で、桂小五郎にも優る腕を持つと言われていた。
古高 俊太郎 (ふるたか しゅんたろう) 町人。京において枡屋喜右衛門の偽名を使い、長州藩を中心とした挙兵計画の準備を進めていた。新撰組に捕縛され、厳しい拷問の末、計画を自白。その情報をもとに新撰組が探索を行い、池田屋事件へと発展した。その後、獄死している。
星野 菊之助 (ほしの きくのすけ) 斎藤弥九郎の錬兵館で、神道無念流を学ぶ。土佐藩主・山内容堂主宰の撃剣大会に参加し、居合の達人と言われた鏡心明智流の上田馬之助に勝利した。
この大会では、他にも織田芳次郎という剣士を破っている。
本間 精一郎 (ほんま せいいちろう) 越後の商人出身。草もうの士として、多くの尊攘志士と交流があった。文久2年(1862年)、土佐勤王党の活動を妨げる者として武市半平太に疎まれ京都市中にて岡田以蔵、田中新兵衛らの手で暗殺される。四条河原にその首を晒された。

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