人物名鑑 【か】
勝 海舟 (かつ かいしゅう)
その後、軍艦奉行並に就任するが、海軍操練所を設立後まもなく職を解かれた。海軍奉行、陸軍総裁などを経験し、慶応4年(1868年)に西郷隆盛と会談し、江戸城無血開城を実行する。維新後は政治よりも著作などで功績を残した。 明治32年(1899年)「これでおしまい」という言葉と共に77歳で他界する。 若い頃は、自宅の天井や柱を薪にしたり、借りてきた本を1冊は売るために2冊分筆写するほど貧しかったが、学問に励み、幕府の大抜擢を受けた。 |
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桂 小五郎 (かつら こごろう)
その後、江戸の錬兵館で剣術を磨きながら、蘭学や西洋兵術なども吸収。水戸藩士・西丸帯刀らと丙辰丸条約を結んだり、久坂玄瑞、高杉晋作らと共に長井雅楽の航海遠略策に反対するなど政治活動にも目覚める。京で尊攘活動を展開するようになるが、八月十八日の政変が起こり、捕縛を逃れるために姿を隠した。その見事な逃亡術から「逃げの小五郎」と呼ばれる。禁門の変後は但馬に潜伏。 慶応2年(1866年)、薩摩藩の西郷隆盛と薩長同盟を結ぶ。明治政府では参与となる。五箇条の御誓文の起草などに参加し、優れた政治手腕を発揮した。明治10年(1877年)、45歳で病死。 木戸孝允の名でも知られる。 「才あれど胆略乏しい」という松陰の評価どおりいかなる時も慎重に立ち回っていた。薩長同盟締結の際も、わざわざ書面で龍馬に確認を取っている。 神経質な性格は維新後も変わらず、そのため、政府内でも次第に孤立していった。 |
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桂 早之助 (かつら はやのすけ)
西岡是心流の大野応之助に剣術を学んだ。 |
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河上 彦斎 (かわかみ げんさい)
彦斎流と呼ばれる、低い姿勢から右手のみで斬りかかるという得意技を使って、佐久間象山など数々の佐幕派暗殺に関わり「人斬り彦斎」の異名を取る。 八月十八日の政変以降は長州藩と共にし、禁門の変に参加するが、長州が敗戦。残存部隊に混じって、長州に落ち延びる。2度の長州征伐で活躍したが、肥後藩の藩論を変えようとして捕らえられた。 その後、鳥羽伏見の戦いを機に釈放され、高田源兵衛と名を改めるが、新政府の政策に反対し、明治4年(1871年)、処刑される。享年38歳。 今までどんな相手であっても、冷静に暗殺をこなしてきたが、象山という大人物を相手に初めて身の毛がよだつ思いを味わったという。そのため、象山暗殺以降、2度と暗殺に手を染める事はなかった。 |
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来島 又兵衛 (きじま またべえ)
八月十八日の政変後、総督として遊撃隊を統率する。禁門の変では国司信濃の参謀として従軍した。 戦闘中に重傷を負い、切腹をして壮絶な最期を遂げた。享年48歳。 「この首をとるかとらるか今朝の春」という句を残しているほど豪胆な性格の持ち主で、志士たちからの信頼も篤かったという。 |
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清河 八郎 (きよかわ はちろう)
文久元年(1861年)、刃傷事件をきっかけに江戸を出て、各地を遊説する。翌年、幕府に浪士組結成を進言。上洛した浪士組を尊王攘夷に利用しようとするが、江戸に帰還した後、佐々木只三郎らにより暗殺される。享年34歳。 清河逃亡後、江戸に残された妻・お蓮は役人から厳しい追及を受け、それが原因で死亡した。冷徹な策士という印象が強い清川だが、この時、実家に 「自分の娘のように弔ってほしい」 と手紙を書くという意外な一面を見せている。 |
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久坂 玄瑞 (くさか げんずい)
文久2年(1862年)、旧友・高杉晋作らと共にイギリス公使館焼き討ちにも参加。その後、尊攘志士たちの若き指導者として活躍するが、禁門の変において、自害。享年25歳だった。 八月十八日の政変で京を共に脱出した七卿と離別する際、即興の詩を吟じ、悲しみを表現するという感情豊かな一面を持っていた。 |
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国司 信濃 (くにし しなの)
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国友 忠之介 (くにとも ただのすけ)
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熊川 熊次郎 (くまかわ くまじろう)
しかしこの事件によって、新撰組と力士側に交流が生まれ、後に壬生で相撲興行が行われたこともあったという。 |
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蔵田 幾之進 (くらた いくのしん)
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児玉 若狭 (こだま わかき)
数の上では勝っていたものの、少数精鋭の諸隊に敗れて撤退を余儀なくされる。 |
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駒井 政五郎 (こまい まさごろう)
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小松 帯刀 (こまつ たてわき)
西郷隆盛、大久保利通といった下級藩士にも慕われ、精忠組にも関わっていた。薩長同盟を始め、明治維新に大きく貢献する。維新後は参与などを務め明治3年(1870年)、36歳でこの世を去る。 |
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近藤 勇 (こんどう いさみ)
上洛後、清河八郎に反発し、芹沢鴨らと共に京に残った。残留した浪士達が京都守護職(会津藩主)預かり壬生浪士組(のちに新撰組と改名)となると芹沢鴨や新見錦と並んで局長に就任。芹沢派の粛清後は、試衛館時代からの盟友・土方歳三の協力を得て、新撰組を完全に掌握する。 池田屋事件では尊攘激派の暴発を阻止し、飛躍を遂げた。しかし、油小路の変で討伐した御陵衛士残党の襲撃を受け、負傷。鳥羽伏見の戦いでは戦線に出られぬまま、江戸に下る。その後、甲陽鎮撫隊を率いて甲府城の奪取を試みるも失敗。敗走の末、流山で降伏を決意する。新政府軍に捕らえられ斬首。 35歳の生涯を終える。 若い頃から武士という物への憧れが強く、特に戦国武将・加藤清正を尊敬していた。奉骨を口の中に入れることができた清正にあやかり、自分も同じ特技を身に付けたという。 慶応3年(1867年)、幕府直参となり、武士になるという志を実現させた。 |