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[ 風雲幕末伝 攻略 ]

人物名鑑 【や】

人物名鑑 【や】

[や] 安岡 嘉助 (やすおか かすけ) 土佐の郷士出身。土佐勤王党に加わり、吉田東洋暗殺に関与する。その後、長州へ逃亡。

文久3年(1863年)、倒幕を行うための挙兵した天誅組に参加するが、敗戦の末、捕縛された。
京都・六角の獄に繋がれ、元治元年、29歳で刑死する。

兄・覚之助も尊攘志士だったが、武市半平太と共に投獄され、釈放後、戊辰戦争で戦死。兄弟揃って志に殉じた理想家だった。
山県 狂介 (やまがた きょうすけ) 長州の下級武士出身。松下村塾に入門し、高杉晋作など尊攘志士と面識を持つ。奇兵隊結成時、軍監として参加。下関戦争で西洋式軍備の必要性を痛感した。高杉が功山寺で挙兵した際、1度は共闘を拒否しながらも、その後、奇兵隊を率いて戦う。

第二次長州征伐をはじめ、幕府との戦闘での功績を認められ、新政府では陸軍卿、参謀、首相などの要職に就いた。山県有朋の名でも知られる。
85歳で病没。

明倫館時代、誤って上士の子の着物に泥をはねてしまったため、土下座して謝罪させられた。その時の屈辱を生涯忘れず、過剰なまでの上昇志向を持つようになったという。
山崎 烝 (やまざき すすむ) 大阪の針灸医の息子。地元に詳しいということから新撰組では取調役兼監察という役職に就き、のちに副長助勤となった。隠密行動に長け、池田屋事変や長州偵察の際に活躍したという。また、学もあり新撰組が公卿を訪問する際には必ず同行した。

鳥羽伏見の戦いで負傷。それが原因で死亡する。
幕府の軍艦・富士山丸船上で死亡し、欧米の海軍式水葬で弔われたという説もある。

幕府御典医・松本良順から医学の手ほどきを受け「我は新撰組の医者なり」とうそぶいていた。
山南 敬助 (やまなみ けいすけ) 仙台藩の脱藩浪士。北辰一刀流免許皆伝という腕を持っていたが、後に天然理心流の試衛館に入門する。近藤勇らと共に浪士組に参加し、壬生浪士組が新撰組になる前から幹部の座に就いていた。池田屋事変では体調不良により屯所に残留している。

慶応元年(1865年)、新撰組を脱走し捕縛。
切腹に処せられた。享年33歳。

脱走の理由は、近藤一派との対立など諸説囁かれている。

山南の温厚で情緒豊かな性格を伝える逸話として島原の遊女・明里との悲恋が後世に語り継がれている。
山野 八十八 (やまの やそはち) 文久3年(1863年)、新撰組に入隊。美男五人衆の1人に数えられている。一番隊に所属していた。

池田屋事件では屯所に残留し、出動していない。
鳥羽伏見の戦いに参加し、江戸へ撤退後も各地を転戦。箱館降伏前に離隊した。維新後は京都の小学校で働いていた。
吉田 東洋 (よしだ とうよう) 土佐藩士の子として生まれる。藩主・山内容堂に重用され、「新おこぜ組」を生み出した大胆な人材登用制度など、藩政改革に手腕を揮った。剣術や学問にも優れ、岩崎弥太郎や板垣退助などが門下生となっている。

一方、旗本殴打事件で職を解かれるなど、短気な一面も持っていた。開国と公武合体の思想を掲げ、武市半平太と対立。武市の指示により、那須信吾らによって暗殺された。後藤象二郎の叔父。
吉田 稔麿 (よしだ としまろ) 長州の下級藩士に生まれる。松下村塾に入門し、吉田松陰から高い評価を得ていた。

万延元年(1860年)、脱藩するが、のちに罪を許され帰藩。翌年、奇兵隊に入隊。

その後、京において、八月十八日の政変で失墜した長州藩の復権を求めるが、池田屋事変で非業の死を遂げた。享年23歳。

鋭い人間観察眼を持ち、放っておくと手のつけられないことから高杉晋作を「放れ牛」、政治手腕の高い久坂玄瑞を「裃を着けた坊主」、成長過程の入江九一を「竹刀」、山県狂介の未熟さを「棒きれ」というように絵を描いてそれぞれの人物を評した。

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