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[ 風雲幕末伝 攻略 ]

人物名鑑 【さ】

人物名鑑 【さ】

[さ] 西郷 隆盛 (さいごう たかもり) 薩摩藩の下級武士出身だったが、藩主・島津斉彬にその才能と人柄を認められ、庭方に抜擢される。
斉彬の指示で将軍継嗣問題に奔走する中、橋本佐内藤田東湖などの尊王思想家に出会い、啓蒙された。

斉彬の死後、藩の実権を握る島津久光としばしば対立し、2度の遠島処分を受ける。大久保利通の尽力によって藩政に復帰すると、禁門の変、第一次長州征伐において活躍。

また、桂小五郎と薩長同盟を結び、倒幕運動を大きく躍進させた。鳥羽伏見の戦いで新政府軍を勝利に導いた後も、各地で旧幕府軍を破る。江戸では勝海舟と会談し、江戸城無血開城を実現した。維新後は廃藩置県、学制発布など多くの制度改革に着手するが、征韓論に敗れて下野。

明治10年(1877年)、反乱軍の総大将に担ぎ上げられ西南戦争を起こすも政府軍に敗北、戦場で自害した。享年51歳。

西郷は自分を重用してくれる斉彬を心底敬愛していたため、斉彬がこの世を去ると悲しみのあまり、尊攘思想家の僧侶・月照と入水自殺をはかる。

しかし、西郷だけが生き残り、奄美大島への流罪を言い渡された。その裏には西郷を安政の大獄から逃がすという意図があったという。
西条 幸次郎  (さいじょう こうじろう) 摂津藩士。文久3年(1863年)、岩崎一郎という偽名で新撰組隊士を騙り、大文字屋源蔵から金策をする。そのことが新撰組の知るところとなり、捕縛され、西町奉行所に連行された。

その後の消息については不明。
斎藤 監物 (さいとう けんもつ) 桜田門外の変に加わった志士の一人。水戸出身で元は神官だった。藤田東湖の門下生。

幕府により江戸で隠居謹慎を受けていた水戸藩主斉昭の潔白を訴える運動や水戸藩と薩摩藩の連携などに力を尽くす。井伊直弼暗殺後、「斬奸趣意書」を提出するが、重傷が原因で事件の5日後に死亡。
斉藤 新太郎 (さいとう しんたろう) 文政十一年(1828年)、江戸に生まれた。神道無念流の斎藤弥九郎の嫡男。19歳の時に諸国を武者修行して回り、長州では吉田松陰に兵学の門人ともなった。この時の縁で、桂小五郎らが江戸の錬兵館に入門することになったと言われる。その後は幕府に招かれ剣術や兵学を教えたが、維新後は官に仕えることはなかった。

明治21年(1888年)、61歳にて没した。
斎藤 一 (さいとう はじめ) 幕府御家人の次男として生まれる。江戸で殺人を犯してしまったため、京に逃れ、壬生浪士組の募集に応じた。以後、幹部として、新撰組に改名後も池田屋事変、天満屋事件などで活躍し、三番隊組長を務める。鳥羽伏見の戦いで敗れた後は、他の隊士と共に江戸へ向かい、さらに会津へ転戦。近藤勇に代わって新撰組の指揮を執っていた土方歳三と離別し会津に残留した。激しい戦闘を生き延び、藤田五郎と名を変えて警察官となる。西南戦争も出征。

大正4年(1915年)、床の間に座ったまま、71歳の大住生を遂げる。

寡黙で忠誠心が強かったため、御陵衛士分隊の際には新撰組の間者を務めた。暗殺任務なども多くこなしたといわれている。
坂本 龍馬 (さかもと りょうま) 土佐藩出身。郷士という低い身分の生まれながら実家が豪富だったため、なに不自由なく育った。十代の頃に江戸へ剣術修行に行き、北辰一刀流・小千葉道場で塾頭まで登りつめる。同郷の武市半平太に誘われ、土佐勤王党に参加するが、意見が合わず脱盟。同時に脱藩し、勝海舟の門人となる。勝の国際思想に強い影響を受け、長崎で日本初の海運商事会社・亀山社中(のちの海援隊)を結成。事業に取り組む一方で薩長同盟締結にも力を尽くした。

他にも大政奉還の基盤を築いた船中八策の起草など、幕末維新に果たした功績は大きい。

「才谷梅太郎」の変名を使うなどして幕吏の目を欺いていたが、33歳の誕生日に京都近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺された。

12歳の時に母親を亡くし、姉の乙女に育てられる。大柄で、性格も男勝りだった乙女が龍馬に与えた影響は大きい。龍馬はしばしば乙女に手紙を書き身の回りの出来事などを報告している。
佐久間 象山 (さくま しょうざん) 松代藩士の子として生まれる。剣術だけでなく学問にも長け、勝海舟、吉田松陰といった才人を世に送り出した。電池を開発したり、日本初の電信実験を行うなど、科学に高い関心を示し、開国によって海外の技術を取り入れることを提言。それが攘夷論者の反感を買い、河上彦斎によって暗殺された。

勝海舟の妹を妻に迎え、息子の三浦啓之助は父の仇討ちのため、新撰組に入隊している。

勝から「いかにも天下の師という態度だった」と評されるほど、人を見下すようなごう慢な所があったため、敵が多い人物でもあった。
佐々木 只三郎 (ささき たださぶろう) 会津藩士の子として生まれ、幕臣・佐々木矢太夫の養子となった。27歳の時、小太刀の達人という腕を買われ、講武所に剣術師範役として出仕。文久3年(1863年)、幕府が将軍警護のための浪士組を結成すると、取締役出役に命じられる。上洛後、清河八郎の計略が発覚すると、浪士組と共に江戸に帰還した。その後、清河を暗殺。

元治元年(1864年)、京都見廻組の隊長に任ぜられ、坂本龍馬暗殺などに関与。鳥羽伏見の戦いで負傷し、それが原因で死亡した。享年36歳。

剣術家としてもかなりの腕前を持つ清河を斬った佐々木だが、文武両道に長け、和歌なども詠んだ。
鳥羽伏見の戦いの最中、酒屋に飛び込み、酒を出させ、その代金の代わりに辞世の句を残している。
沢村 惣之丞 (さわむら そうのじょう) 地下浪人の出身。土佐勤王党に参加するが、龍馬と共に脱藩。亀山社中の一員となり、海援隊に改名後も、その語学力を活かして活躍した。天満屋事件にも関わる。慶応4年(1868年)、長崎奉行所襲撃の際、誤って薩摩藩士を射殺してしまった為、責任を感じて割腹自殺を遂げた。
享年25歳。別名・関雄之助。

英語だけでなく、数学にも通じ、陸奥陽之助たちに教授していた。幕臣・大久保一翁からも高い評価を受けている。
品川 弥二郎 (しながわ やじろう) 足軽の子として生まれる。15歳の時、松下村塾に入塾。吉田松陰からその才能を高く評価される。
松陰死後は久坂玄瑞、木戸孝允などに付いて行動し補佐役として活躍した。禁門の変にも参加。

戊辰戦争では、整武隊参謀として五稜郭攻撃などの指揮を執る。維新後も農商務大臣等を経験し、政治活動に尽くした。58歳で病没。

戊辰戦争時、士気を高めるために歌われた軍歌「トコトンヤレ節」を作詞し、意外な才能を発揮している。
篠原 泰之進 (しのはら たいのしん) 伊東甲子太郎と共に新撰組に入隊。隊内では諸士取調役兼監察を務めている。江戸にいた頃は、英国人3人を捕縛し、海岸に放置するという事件を起こすほど、過激な攘夷論者であった。

伊東に付いて御陵衛士となり、伊東殺害後、油小路で新撰組と戦う。油小路の変を生き延びた篠原は伏見で近藤勇を襲撃。その後、薩摩藩と共に鳥羽伏見の戦いに参加した。維新後、クリスチャンとなって大阪造幣局に勤める。
84歳で他界。回顧録「泰林親」を残している。
渋沢 栄一 (しぶさわ えいいち) 武州に豪農の子として生まれる。早くから尊攘思想に目覚め、天朝組を結成。その後、一橋家の家臣となる。大沢源次郎の謀反が発覚した際、新撰組に捕縛の協力を依頼した。

維新後は徳川昭武に随行し、渡欧。帰国後大蔵省を経て、財界に進出。第一国立銀行設立をはじめ、事業家として腕を奮った。

「論語」を愛読し、その精神を自分の生きる指標としていたため、500以上の事業を起こしながら福祉や教育にも力を注いだ。
島田 魁 (しまだ かい) 大垣藩出身。脱藩し上洛、新撰組(壬生浪士組)に加わる。諸士取調役監察や二番隊伍長などを務めた。江戸退却時には負傷者の介護及世話役となる。
その後も土方歳三と共に会津、箱館と転戦。

明治2年(1868年)、新政府軍に投降、名古屋藩預かりとなる。その後、西本願寺の守衛などを務め、明治33年(1900年)、73歳で生涯を終えた。

新撰組随一の怪力として知られる。大阪力士乱闘事件では力士を易々と投げ飛ばしたり、鳥羽伏見の戦いでは本陣の土塀の上から永倉を引き上げた等、怪力ぶきを伝える逸話がいくつも残されている。
島村 志津摩 (しまむら しづま) 小倉藩家老。第二次長州征伐では、幕府側の指揮官として戦い、功績を上げた。藩政においても殖産興業を推進するなど、高い評価を得ている。

維新後しばらくは政治の世界に身を置いていたがその後、野に下った。44歳で他界。
鈴木 四郎 (すずき しろう) 元治2年(1865年)、兵庫で佐々木六角源氏太夫の挙兵計画に加わるが、見廻組の探索を受けて逃走。翌日、捕縛に加わった新撰組の手によって殺害された。この騒動は、後に播磨屋事件と呼ばれるようになる。
芹沢 鴨 (せりざわ かも) 水戸藩出身。武田耕雲斎に師事して、水戸天狗党の一員となる。狼藉を働いたことで投獄されるが、大赦により釈放された。

獄中で死罪を覚悟し、指を噛み切って、その血で辞世の句をしたためるような豪胆な性格だった。

しかし、釈放後は酒に溺れ、自暴自棄に振る舞いをするようになる。

文久3年(1863年)、新見錦、平山五郎などを従え、浪士組に参加。上洛後、路線変更を謀った清河八郎に反発して、京に残留した。近藤勇の一派らと共に壬生浪士組を結成、筆頭局長となったが、大阪出張時に力士たちと乱闘を繰り広げたり、金を貸し渋る大和屋に焼き討ちをかけるなど、暴虐を働いたため、会津藩から暗殺命令が下り、近藤一派の粛清を受ける。水戸時代の名は木村継次。
相馬 主計 (そうま かずえ) 笠間藩士の子。天満屋事件、鳥羽伏見の戦いに参加した。新撰組が江戸に退却した後も甲陽鎮撫隊や旧幕府軍として戦い続ける。

明治2年(1869年)に箱館で土方歳三が戦死したため降伏。その際、新撰組最後の隊長という任に就いた。新政府軍に捕らえられ、新島に流刑となるが、釈放された後、突然、切腹死を遂げたと言われている。

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