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[ 風雲幕末伝 攻略 ]

人物名鑑 【ま】

人物名鑑 【ま】

[ま] 前原 彦太郎 (まえばら ひこたろう)   前原一誠の名でも知られる。松下村塾門下生。当時は佐世八十郎と名乗っていた。
松陰から「勇あり、智あり、誠実人に過ぐ」と評される。久坂玄瑞らと尊攘活動を行い、八月十八日の政変以降は、七卿の用掛を務める。下関戦争や第二次長州征伐の防衛戦にも参加。その後も長岡城攻略などで活躍をみせる。
維新後、越後府判事となるが、政策を巡り木戸孝允(桂小五郎)と対立し、明治9年(1876年)萩の乱を起こして処刑された。享年42歳。

会津落城後、会津藩家老の子で、のちに東京帝大総長などを務めた山川健次郎ら3人の少年を東京に連れて行き、教育を受けさせるなど、維新後も誠実さを失わなかった。
真木 和泉 (まき いずみ)   久留米藩水天宮の神官。江戸滞在時に尊攘思想の洗礼を受け、帰国後、藩主に藩政改革の意見書を提出するなど、早くから活発な動きをみせる。薩摩藩の志士たちと交流を持ち、共に挙兵を計るが、寺田屋事件によって鎮圧された。その後、藩内の保守派によって投獄。
釈放後、長州に入り、元治元年(1864年)、禁門の変に参加する。長州軍敗退によって、天王山で自刃。享年50歳。
三浦 休太郎 (みうら きゅうたろう)   紀州藩公用人。坂本龍馬暗殺の疑いをかけられ、京都・天満屋において、海援隊の陸奥陽之助、中井庄五郎らの襲撃を受ける。この時、新撰組の斎藤一らが警備についていたため、軽症で済んだ。嫌疑の理由は、いろは丸事件において、龍馬から多額の賠償金を請求された事による怨恨だったという。維新後は政治家として活躍した。
道島 五郎兵衛 (みちじま ごろうびょうえ)   薩摩藩士。文久2年(1862年)、島津久光の上洛に乗じて挙兵しようとしていた志士たちを説得するため、寺田屋へ向かう。交渉が難航した為、志士の1人を切り捨てた。それを合図に両者が衝突。
有馬新七に取り押さえられ、新七共々、志士の刃に倒れる。
宮部 鼎蔵 (みやべ ていぞう)   肥後勤王党の総監。山鹿流兵学を学ぶ、藩の兵学師範を務めた経験を持つ。肥後藩を訪れた吉田松陰と出会い、交友を深めたことから尊攘派の重鎮として知られる様になった。八月十八日の政変で七卿と共に長州へ落ち延びるが、京に戻って活動を再開。
大掛かりな挙兵計画を立てる。
しかし下僕の忠蔵が捕縛されたことにより、潜伏が露見してしまった。それが原因で池田屋事変が起こり、奮闘も虚しく自刃する。享年44歳。

吉田松陰と交流が深く、ペリー来航の際、密航のため、黒船に潜入しようとした松陰に、刀を交換して成功を祈ったという。過激な尊攘思想という点で2人は強く結びついていた。
三吉 慎蔵 (みよし しんぞう)   剣術師範の子として生を受け、長州藩士・三吉家に養子入りする。槍の名手としても知られ、寺田屋で坂本龍馬が幕吏に囲まれた際、奮闘して、脱出を助けた。
龍馬暗殺後、その妻・お龍を引き取って3ヶ月間面倒を見たことで有名。維新後は北白川家の家令などを務めた。70歳で他界。

死線をくぐりぬけた2人はその後も堅い友情で結ばれ、龍馬の死後、彼の刀を形見として受け取っている。
陸奥 陽之助 (むつ ようのすけ)   紀州和歌山藩の名家に生まれる。兄の影響で尊攘志士の道を歩み始めた。坂本龍馬と出会い、亀山社中に参加。海援隊に変名後も、商務担当者として不可欠な存在となる。
龍馬暗殺の報を受けると、黒幕として噂されていた三浦久休太郎を天満屋で襲撃した。
維新後は「陸奥宗光」として、農商務大臣や外務大臣などの政治家として活躍した。54歳で病没。

海軍操練所時代は勝海舟の監視下に置かれ、おとなしくしていたが、若い頃は破天荒な行動が目立つ人物だった。
毛利 宣次郎 (もうり せんじろう)   藩主・毛利家の一族。元治元年(1864年)、高杉晋作が挙兵した際に、総奉行として討伐軍を率いて、明木に中軍の陣を構える。圧倒的な戦力差があったものの、足並みが揃わず苦戦。一時は力を回復し、追い込んだものの、高杉晋作の加勢により敗退している。
望月 亀弥太 (もちづき かめやた)   土佐藩士の次男に生まれる。兄と共に土佐勤王党に加盟。文久2年(1862年)、山内容堂を護衛する五十人組に参加して江戸に向かう。
その後、坂本龍馬に紹介で勝海舟の門人となり、航海術や測量術を身に付けた。
元治元年(1864年)、池田屋事変に遭遇。脱出に成功したものの、逃げ切れず切腹して果てる。

純粋で真面目な性格から、坂本龍馬に「カメ」の愛称で呼ばれ、かわいがられていた。

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